治療教育という道 その九

投稿日:2023年01月26日(木)

前回ご紹介したように、本邦教育学・教育哲学界の大家、岩間浩先生の最新の文章を掲載する
本コラムとしては大変に光栄なことであり、読者のみなさんには、是非以下の大作をご満喫いただきたい

 

芸術教育について切に思うこと  岩間浩

この10月末に、岩間教育科学文化研究所発行の「新教育運動研究誌」第28号に、我が国の美術教育先駆者・山本鼎(1882~1946)の美術教育論を取り上げることになりました。調査のために、山本の故郷であり、彼の児童自由画教育運動及び農民美術運動の拠点であった長野県上田市に行って参りました。この時訪問した、山本の農民美術運動を継承する「木彫り美術館」(信濃鉄道国分駅下車10分)を訪ねました。ここには日本各地の木彫り作品や、東南アジア、南北アメリカ、ヨーロッパ各地、中国、ロシアなど世界中の木彫り作品が集められ展示されています。館長の尾澤敏春氏親子も木彫りの芸術家です。その尾澤さんが、私の帰り際に述べた言葉が心に引っかかるものでした。彼によると、近年、学校の図画工作・美術の時間が削減されたために、今は図画工作・美術の先生は昔のように一定の学校に定着して児童生徒の図画・美術学習を指導するのではなく、あちこちの学校を掛け持ちしていると述べ現状を嘆いておられたのです。
私は停年退職後に大学の教育学講義から13年間も離れていますので、図画工作・美術学習の時間が削減されたことは知ってはいましたが、経過についてはおぼろげになっていたため、それを確認する必要がありました。そこで、ここに書く機会が与えられましたので、授業数削減の経過と理由などの確認作業をして、結果を記し、この場をお借りして、皆様と図画工作・美術教育、広くは音楽教育を含めた芸術・情操教育の在り方を吟味することにしました。

かつては、昭和22(1947)年の『学習指導要領』以来、図画工作・美術科は小学校から中学校まで週2~3時間あったものが、平成10(1998)年以降は小・中学校で大きく削減されました。たとえば中学校2・3年で週に1時間と減少し、美術教師から「これでは何もできない」と嘆く声が聞こえるとのことです。なぜかと言えば、平成14(2002)年度から学校が週5日制へと移行するとともに、新たに「総合的な学習の時間」が導入された結果、各教科目の時間数が削減されることになり、小学3年生から高等学校に至るまで、「図画工作」及び「美術」の時間が大幅に削減されることになったのが直接の原因です。
現在、小学校の「図画工作科」は1・2年生で週に2時間(1時間単位は45分)、3・4年生で週に1.7時間、5・6年生で週に1.4時間に過ぎず、中学校の「美術科」では、1年生で週1.3時間、2・3年生で1時間(時間単位は50分)です。高等学校では、「芸術科」の「音楽」は1・2・3年生で週2時間、「美術」も2時間、「工芸」も「書道」も1・2・3年生で2時間となっています。そして、「音楽Ⅰ」「美術Ⅰ」「工芸Ⅰ」「書道Ⅰ」のうち1科目が選択必須科目です。ⅡはⅠの後に、ⅢはⅡの後に履修することになっています。ほかの教科と年間授業時間で比べますと、小学校の第3学年では、国語245時間、社会70、算数175、理科90、体育105時間に対して、「音楽」60、{図画工作}60時間となります。第6学年生では、国語175、社会105、算数175、理科105、家庭科55、体育90、外国語70時間に対して、「音楽」50、「図画工作」50時間になります。比率でみると、第3学年では、「国語」の4分の1、「理科」の1.5分の1の時間数です。中学校では、第3学年では、国語105時間、社会140時間、数学140時間、理科140時間、保健体育105時間、技術・家庭35時間、外国語140時間で(道徳の時間35、総合的学習の時間50、特別活動の時間35時間)、「音楽」は35時間、「美術」も35時間です。いずれも、国語、数学、理科、社会、外国語の4分の1程度しかありません。

音楽や美術教育の時間減の原因は、週5日制導入以前の1957年のソ連による人類初の人工衛星スプートニク1号成功とそれに対抗するアメリカの人工衛星計画ヴァンガード計画失敗でのアメリカの自信喪失とパニック「スプートニック・ショック」に始まります。これによって、それに加え著しい日本の学力の台頭によって、アメリカ型の児童生徒の理科的・数学的の能力を引き出す経験主義教育が見直されます。1983年の連邦教育長官諮問委員会報告『危機に立つ国家』でアメリカ児童生徒の学力低下が問題となりました。その結果国家的立場から理科・数学の基本を教えこむ教育への転換がなされたのです。
アメリカの影響を受けた日本教育界は、1958(昭和33)年の「学習指導要領」改訂で、アメリカ的経験主義的教育から系統主義への転換が行われ、基礎学力の充実と科学技術教育の振興が唱えられ、1968(昭和40)年には、教育内容の一層の向上が指摘されて、学習内容が過去最大になりました。しかし詰込み教育が問題視されるに至り、1977(昭和52)年の学習指導要領の改訂では、詰め込み教育からゆとりある教育へのシフトが起こり、標準授業時間を削減し、教育内容を精査し創造的な能力の育成へと向かい、1989(平成10)年の改訂で、思考力・判断力・表現力を重視した新学力の育成の方向が示され、小学校1,2年での生活科導入がなされたのは良いとして、この時に隔週5日制が導入されたのです。また、続く1998(平成10)年の改訂で、生きる力と自ら学び自ら考える力、ゆとりある教育活動、基礎・基本の確実な定着、個性を生かす教育と総合的な学習時間の新設がなされ、この時に完全5日制となりました。こうした土曜日の授業時間削減は、西洋諸国に習った面が強く、また、日本の教育が受験勉強のために児童生徒が塾で猛烈学習をする状態が西洋諸国から批判を浴びたことにも原因がありました。しかし、授業時間の大幅削減のとばっちりを受けたのは、図画教育・美術教育、音楽教育という情操教育部門でした。情操教育の教科目標は、一貫して「表現の喜びを味合わせ、豊かな情操を養う」とはなっていますが、そのためには週にわずか1時間とか2時間ではかなわない問題です。さらに、日本では一流校に合格することを目指す風潮が強く、受験に課せられる国衙、算数(数学)、理科、社会、英語の5教科が重視されるが、受験科目にない美術や音楽は軽視される傾向が強く、情操教育の効果が一向に上がらないのが大きな問題です。知育偏重で頭でっかちの人物、情操に欠け、他人への思いやりや想像力が育たず、したがって創造力が育たない人物が多く生まれる土壌があると言わなければなりません。今日の頭脳的な詐欺行為の多発、いじめやパワハラ、セクハラ、ハッカーなどの多発は、皆、人の根底をなすべき情操が育っておらず、冷たい知性のなせる業ではないでしょうか。

ここで、一転して、情操教育の在り方のヒントになると思われる、今私が調べつつ書いている山本鼎とその業績について概要を述べたく思います。

◎修業時代

【山本鼎】

【山本鼎】

彼は明治15(1882)年、徳川家康の出生地・愛知県額田郡岡崎町・岡崎城の城下町で西洋医学医の医師を目指す父一郎と、母タケの下で生まれました。鼎の祖父は岡崎藩の御典医で、父一郎は祖父・山本良斎の下で良斎の跡を継ぐべく漢方医を志していたのですが、漢方医学を西洋医学に置き替えようとする明治維新政府の方針により、23歳のとき西洋医師の資格を得るために単身上京し、隅田川ほとりの森鴎外の父・森静男医師の家に書生として住み込みで働いていました。鼎は5歳の時に母タケに連れられて、森静男の院の書生をしている父の下に行くべく上京し、浅草の山谷に住み、そこの小学校に入りました。
10歳の明治25年3月に4年制尋常小学校を卒業しますが、鼎は、父が医師見習の書生であるなどで経済的に苦しかったために高等小学校に通えず5月に東京芝区(現・港区)浜松町にあった木版工房主・桜井暁雲(寅吉)の工房に住み込みで修業を始めました。鼎は同僚たちと共に掃除や使い走りなどをしながら、雑誌や新聞や書籍等の挿絵や肖像画の木口木版(西洋木版)に携わり、やがて腕を挙げて人体解剖図や動植物が彫れるようになり、今に残るキリンビールの商標を手掛けるほど木彫りに抜きんでた才能を発揮するようになりました。西洋木口とは、従来の日本の印刷用図版が板目彫りであったところ、板目彫りよりも繊細な部分まで点描風に掘り出せる西洋木版を彫る方法です。こうして木彫り職人として一人前になり、7年間の年季奉公生活を終えると、頼まれて下絵を掘るだけではない創造的芸術世界に進みたいと希望するようになりました。親方・暁雲もこれに賛同し、暁雲のアドバイスにより、東京美術学校を目指すようになりました。日清戦争(明治27~28年)以後、印刷製版技術が急速に向上し写真製版の時代に突入して木工技術のみでは将来が見込めなくなり、親方が鼎の芸術才能を見込んで美術学校への進学を勧めたのです。
鼎が桜井工房で修業生活に入っていた16歳、明治31(1898)年に、すでに医師の資格を得ていた父・一郎は40歳で長野県小県郡神川村大屋(現・上田市)で病院を開業しました。神川村の神川は千曲川支流に当たり、上田市の東部に位置しています。よく氾濫に見舞われるこの千曲川流域は砂礫層が堆積するやせ地であるため、砂礫層の土地でも育つ桑の栽培のみが江戸時代から行われてきました。江戸後期にこの地域を含む上田小県地方は日本有数の養蚕地に発展し、明治期に信濃鉄道が開通すると、生繭と生糸の運送の要所となっていったので、この地方に駅を作る要望が高くなりました。その要望に応えて明治29年1月に信濃鉄道に大屋駅が開設されると大屋駅前に旅館や郵便局、病院、倉庫、銀行営業所、劇場などが次々に開業しました。大屋病院は明治29年(1896)11月に日清戦争終結を記念して大屋駅近くの高台に建設されました。この地の近隣の医師で一郎と共に東京の医師養成校「済生学舎」に通った原田亥三太の声かけに応えて鼎の父・一郎が東京を離れて明治32(1899)年にここの病院長として赴任したのです。一郎が医師の修業を始めてからすでに14年を経た約40歳の時です。後年この土地が鼎にとって児童自由画運動と農民芸術運動の拠点となります。
鼎の年季奉公開け1年ほど前に、鼎は印刷局の石井柏亭(1882~1958)が同僚たちと組織していた洋画研究の小団体「紫蘭会」に参加します。柏亭は幼いころから父・鼎湖から日本画を学んでいたましたが、14歳の時、父が刷版課第一室長を勤めた官営の印刷局を退職したため、長男の柏亭は印刷局に入局することになりました。紫蘭会では月例会を催して洋画を描いており、鼎はここで水彩画をも描くようになりました。

◎東京美術学校(現・東京芸術大学)学生時代
山本鼎はいったん父のいる信州上田の大屋に滞在して将来について話し合ったところ、父の理解を得て、東京美術学校入学(現・東京芸術大学)を目指すことになりました。翌明治34(1901)年、19歳の時に、学費と生活費を得るべく、恩師・桜井暁雲が経営する桜井清和堂の仕事をしつつ、挿絵を多用していた報知新聞社に入社、肖像画などを彫りつつ受験勉強に励み、明治35(1902)年8月、20歳の時に、学歴を問わず実技いかんで入学を許す東京美術学校西洋画科予科に入学しました。
入学後、鼎は上野桜木町の同級生橋本邦三と親しくなりしばらく同居し、のち研究に専念するために上野動物園の裏の谷中清水町1丁目に家賃の安い二階建ての長屋風の家を見つけ、ここを石井家に借りてもらい、石井家との同居生活を初めました。すると紫蘭会で懇意になった石井柏亭とその同僚たちがここに集うようになり、昼は学校に通い、夜はここでモデルを囲んで写生会を開いたり、石井家で遅くまで芸術論を闘わせるなどにぎやかな生活を送りました。
柏亭はこの年(明治37年)に鼎と同じ美術学校の西洋画科選科に入学しました。7年前の明治30年11月には日本画家の父・鄭湖が齢50歳で亡くなり、石井家には画学生となった柏亭のほかに柏亭の二人の姉、5人の弟に一人の妹の計8人の子が残されていました。そこで母のふじは、家計のやりくりのために下宿を経営することになったのです。当時上野の不忍池周辺は美術学校が近く、また、画塾が点在し、芸術的環境が備わっていました。鼎は予科から選科に進み、フランス印象派の影響を受けた師の黒田清輝から油絵を学び、ニューヨークのナショナル・アカデミーやパリのアカデミー・ジュリアンで学び東京美術学校で西洋美術史の講義を担当していた岩村透の「現在の芸術家は個人の芸術家であり、流派や先人の絵の盲目的模倣ではなく自ら美を創造していかなくてはならない」という趣旨の主張に影響を受け、学業に読書にデッサンにと励むようになりました。

◎創作版画の創出

【版画「漁師」】

【版画「漁師」】

明治36年の暮れから翌37年の1月にかけて山本鼎は紫蘭会の仲間たちと千葉県房州にスケッチ旅行し、帰宅後に旅行で描いたスケッチをもとに水彩画「御宿風景」を描くとともに、得意の版画でたくましい漁師の姿を彫って、与謝野鉄幹と晶子主宰の文芸誌『明星』に2色刷りの版画「漁師」を投稿し掲載されると、柏亭が同誌の「パレット日記」で鼎の「漁師」を絶賛し、これが鼎の版画のデビュー作になりました。これは木版画でなければ出せない漁師の逞しさを表わした作品であり、版画が芸術として認められる道を開く作品となりました。
このころ、詩人で歌人の与謝野鉄幹、歌人で詩人の石川啄木、洋画家の青木繁、詩人の蒲原有明らの芸術家たちと親しくなり、さまざまな挿絵や版画、そして肖像画を手掛けます。また、東京美術学校の本科生になりました。24歳になった明治39(1906)年1月には父のいる長野県神川村大家に帰郷し、久しぶりに家族と正月を過ごし、母の妹がくつろぐ姿の油絵の大作「蚊帳」を作成、これが古建築研究家の川上邦基主催の美術文芸誌『平旦』(有楽社発行)に掲載され、第1号に挿絵、第3号に「西洋木版について」が、4号にその続編がこの芸術誌に掲載され、また第5号の表紙を鼎の版画、力強い男性の「斧振る人」が飾りました。この美術誌を通して、日本画家で洋画家の小杉未醒(放菴)や日本画家の平福百穂、のちに『方寸』誌や「パンの会」で鼎と緊密に活動する洋画家の森田恒友、柏亭の弟で彫刻家で版画家の石井鶴三らと、主に版画を投稿し版画家としての道を歩み出します。このころ鼎は石井家を出て本郷区(現・文京区)森川町の借家に越しました。昼は卒業制作「自画肖像」にはげみ、夜は木版を彫ったり、石井家に遊びに出かけたりしました。
鼎はこうした生活を続けながら、明治39(1906)年4月に東京美術学校を西洋画家本科生11人の一人として24歳の時に卒業しました。
『平旦』と同じ時期に創刊された風刺漫画雑誌『東京パック』(米国の漫画雑誌“Pack”にちなんだ命名)の出版社が『平旦』と同じ有楽社であったため鼎らは主幹の北澤楽天と知己となり、日本画家の川端龍子や洋画家の坂本繁二郎らも加わって同誌に漫画を投稿しました。
明治38(1905)年に水彩画家・大下藤次郎(1870~1911)によって創刊された『みづゑ』に鼎は木版画論を展開するようになりました。鼎は明治40年の25歳の時に、『みづゑ』に「千曲川いざなふ波の岸近き宿にのぼりつ」や「漁師街」などの図版を投稿するとともに、第21号と23号に「版のなぐさみ」と題する版画論を投稿しました。ここで鼎は浮世絵版画と西洋の木口版画の違いから説き起こし、写真技術の急速な発達で危機を迎えている版画芸術の窮状を訴え、美術としての自画自刻の木口木版に活路を見出そうと記しました。江戸時代に流行した浮世絵などの日本の版画は、絵師、彫師、摺師の分業によって製作されていましたが、この3工程を一人で美術作品として行なう道を鼎は提示したのです。そして「創作版画」及び「版画」という言葉が鼎によって産み出され、鼎が日本における近代版画の先駆者となりました。後世の棟方志功などによる独創的な版画美術が生まれる基礎が創られたのです。

◎同人誌『方寸』の発行
卒業後、山本鼎と美校同級生の森田恒友とは、ある日、ドイツの漫画雑誌『ユーゲント』のような絵入り雑誌を創ろうと相談しあいました。そこで二人は印刷面に詳しい柏亭も仲間に加えようと考えましたが、柏亭はその頃眼病のトラホームを病んでおり、美術学校を退学し、大阪中之島の長姉の家で眼の療養をしていましたが、ようやく眼疾療養が終わったころ東京に戻り、鼎らの仲間と再会し、同人芸術文化誌『方寸』が創刊されます。誌名は「説文」という中国の字典から見つけ出した名前「方寸」としました。この中にあった「方寸」とは、1寸(約3センチ)四方のごく小さな空間のことで、「狭い」から転じて「胸三寸」「胸中」、さらに転じて「心」「精神」となります。『方寸』は絵画と文学を兼ね備えた同人誌で、美しい版画や絵画や漫画や風刺画に評論、随筆、詩句、小説、座談と内容豊かで、優雅で漸進な美術文芸誌でした。最初は発起人の3人のみでしたが、翌年5月から洋画家の倉田白洋、洋画・日本画家の小杉未醒、日本画家の平福百穂らが同人に加わり、翌明治42年7月から版画家の織田一磨が、同年9月から洋画家の坂本繁二郎が、43年10月に美術評論家の黒田龍心が、さらに、詩人で医師の木下杢太郎、詩人の北原白秋、洋画家の荻原碌山、詩人で彫刻家の高村光太郎、詩人で「海潮音」の翻訳者・上田敏と、若く有能な芸術家たちが次々と同人に加わり、芸術運動の拠点の一つになりました。白秋と知己になったことで、鼎は白秋の第一詩集・異国的な『邪宗門』に挿画を作画したのはこの頃です。明治42年11月には、鼎は白秋、柏亭、小杉未醒らと『方寸』発行続行の経費を得るために北陸に旅をした途上、鼎の父母が住む長野県神川村大屋の父の家で画会を開きました。この文芸誌は明治44年の5巻3号まで、約4年間続き、鼎はここの表紙に「猿」ほか、木版画「隣家庭」「製版処」「魚河岸」「炎天」などを掲載し、「創作版画」の作家としての道を切り拓いていきました。

◎「パンの会」の結成と活動
明治末期の明治41(1908)年12月から大正2(1913)年まで続いた、青年文芸・美術家の集まりである「パンの会」は、1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に触発されて生まれたロマン派(反自然主義・耽美的な派)的芸術運動です。「パン」とは、ギリシャ神話の半人半獣の牧羊神で、享楽の神の名に由来します。文芸誌『明星』廃刊後に森鴎外や与謝野鉄幹(寛)らが発行した『スバル』同人の石川啄木、木下杢太郎や北原白秋、吉井勇らの文芸人たちと、美術同人誌『方寸』の石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊らの美術家らが交流する会でした。のちに、欧米留学から帰国した高村光太郎や、文学界先人の上田敏や永井荷風らも参加しました。この会は5年間ほど続いた短期間の会でしたが、日本の文芸・美術界発展に大きな刺激を与えました。
「パンの会」は、詩人・劇作家・皮膚科医学者の木下杢太郎(1885~1945)が、パリのカフェでのサロンのような会を作ろうと、隅田川をパリのセーヌ川に見立てて隅田川河畔で両国橋付近の西洋料理店を見つけ、青年芸術家たちに呼びかけ、「パンの会」と銘打って(方寸社を事務所として)結成された会です。この会は毎月定例会を開いたばかりでなく、明治42年10月には大会を日比谷公園内の名店・松本楼で催すなど、大いに盛り上がりました。彼らはここで芸術論や文学論を闘わせ、酩酊し、歌を詠ったりして青春を謳歌します。鼎27歳から30歳のころです。

◎石井柏亭の妹との失恋体験
山本鼎は石井家に同居したり、倉田白羊と同居して、石井家と歩いて数分の千駄木林町に住んだりしている内に、年頃になった柏亭の妹・石井みつに恋心を抱くようになり、みつも鼎に好意を寄せるようになりました。鼎が意を決してみつの母ふじに、みつとの結婚を申し込むと、意外なことにふじは、この申し出を固く断りました。親友であるみつの兄・柏亭にとりなしを頼むものの、柏亭は妹の結婚相手の決定権は戸主の母ふじにあるとして、積極的にとりなすことをしませんでしたので、憤慨した鼎は酩酊していた時に柏亭に決闘を申し込むという事態に至りましたが、(若山)牧水や白秋が間に入って事なきを得ました。以来、鼎と柏亭との間には溝が生じてしまいました。当時石井家ではふじの夫が50歳で他界した後、ふじは柏亭の姉二人、柏亭、その弟の貞次郎、鶴三、四郎、みつ、幸と、8人もの子供を抱えており、成人して職業についている柏亭の生活も安定していなかった上、成人している柏亭の姉たち以外に未成年の子供5人がおり、しかも、柏亭は洋行を願っており、鶴三は美術学校を目指していて、経済的に不安定な画家の道をたどる鼎に娘を託すわけにはいかなかったのでしょう。

◎パリ滞在期
山本鼎は失恋によって煩悶する日々を送り、荒れた生活を送りました。見かねた上田(大屋)の両親は、鼎に旅に出て気を紛らわすことを勧めました。彼は母の妹が嫁いでいる京都の村山家に行き、そこで府立一中に通う従兄弟の村山槐多と再会しました。大正8年に22歳で夭折する鬼才の画家で詩人の村山槐多は、岡崎町(現岡崎市)に小学校教員・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれました。母のたまが東京の森鴎外家で女中奉公をしていたため、生まれた児の名前を鴎外が「槐多」と命名したといいます。その後、父・谷助が京都に移って教員生活を続けたので、槐多は4歳の時から京都市上京区で育ち、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)に通い卒業まで京都で過ごします。鼎は京都で14歳年下の槐多に会って、その画才に驚き、油彩道具を買って与えるなど、槐多を励まし続けるようになり、槐多に対して恋愛とは別の、未成熟な存在を見守り育てようという教育愛に目覚め、幾分心の安定を得ました。槐多は一中を卒業すると、叔父・叔母のいる信州大屋に長期滞在し、猛烈に絵を描きのちにパリにいる鼎に送りました。
一方、柏亭は明治43年に念願の渡欧を実行することになり、12月にその送別会が詩人で作家の長田秀雄と洋画家の柳敬助の入隊による送別会を兼ねて「パンの会」で行われました。柏亭29歳の時で、鼎との葛藤からのがれる意味もあったと思われます。明治45年5月に帰国するまで、ローマ、パリ、ロンドンを中心に、スペインなどヨーロッパ各地を訪問しつつ絵を描き、ヨーロッパ滞在中の日本人画家や文芸家と交流しました。
鼎は気が沈みがちでしたが、明治44年7月に洋画家・坂本繁二郎と「東京版画倶楽部」を開設しました。翌明治45年2月には本籍を父母のいる長野県小県郡神川村大字大屋に移し神川村に滞在しました。このころ、神川村に引きこもっていた鼎を慰めるため、詩人・若山牧水が短歌仲間のいる小諸などを訪ねた折に鼎を訪ねました。また、鼎は、癒えぬ心の傷を治すために、しばらく日本を離れ洋行することを考え両親に打ち明けて両親から了解を得ました。そこで渡航費のためにパトロンを探したり肖像画を描いたり、借金の相談をしたりしつつ、叔父の家に下宿し、牧水と、白秋の弟で出版社アルスを経営していた北原鉄雄らの見送りを受け、新橋を発ち、神戸港から明治45(1912)年7月に丹波丸に乗って渡仏への船旅に出ました。途中、インド洋のセイロン島のコロンボで明治天皇の逝去が知らされたので船は半旗を掲げて航行しました。大正天皇の即位と共に新時代が始まるのです。鼎30歳の時です。
鼎は53日間の長い航海を経て明治45年8月にフランス南部マルセイユに着き、マルセイユの美術館で、「貧しき農夫」などで知られるピエール・シャヴァンヌの絵やロダンの彫刻を見、シャヴァンヌの故郷リヨンでシャヴァンヌの絵やルノアールなど印象派の作品を見、8月24日にパリに到着しました。以降、さまざまな印象派の作品を鑑賞し、感銘を受けて、印象派の影響を受けるようになりました。
パリでは、先にパリで生活していた美術学校2年先輩で文部省美術留学生の和田三造の世話でアパートの部屋を紹介してもらいそこにとどまりつつ、また宿を変えつつ、和田三造の同期生・児島虎次郎、パリ訪問中の文人・与謝野鉄幹・晶子夫妻、1年後に渡仏した『方寸』同人で親友の小杉未醒(放庵)、画家・藤田嗣治や小林満吉、満谷国四郎、作家・島崎藤村、画家・安井曽太郎、そして遅れてフランスにやって来た同級生で親友の森田恒友らと交流し、美術論を闘わせ、ルーブルなどの美術館に通い、かつ、国立美術学校・エコール・デ・ボザールのエッチング科で銅板や石版リトグラフを学び、また木版専門教授から木版を学びなおしました。生活費を稼ぐために木版工房で毎日3時間働きました。その傍ら自ら木版画「デッキの女」「支那の女」「野鴨」など15種を彫り、油絵など50枚を作製しました。しかし、経済的困窮に加えて失恋の苦悩はたやすくは癒されることはありませんでした。
鼎の事情を知る小杉は、鼎を誘ってフランス北西部で大西洋に突き出た半島・ブルターニュ地方を訪れます。パリに来て1年弱後の大正2(1913)年7月のことです。この地方の丘の上に建つホテルで8月末まで過ごし、二人で麦畑で遊んだり、写生をして「ブルターニュの夏」を描いたり「ブルターニュの小湾」を彫ったりし、のんびりと英気を養うことができ、苦悩が和らぎました。ブルターニュ地方の女性を描いた傑作版画「ブルトンヌ」も産まれました。

【版画「ブルトンヌ」】

【版画「ブルトンヌ」】

パリに戻ってから、鼎は新しくやって来た10歳ほど年上の島崎藤村と懇意になりました。藤村は信州木曽の出身で、明治29年に『若菜集』で文壇デビュー、明治32年に小諸塾の英語教師となり、結婚、明治39年、長篇小説『破戒』を自費出版、妻は第4女を産んだ直後に病死し、のち、家事手伝いに来ていた姪・次兄の次女と愛人関係になるという男女関係のもつれから逃れるべく大正2年5月にフランスに渡ったのです。鼎と藤村は信州を同郷とするとともに、男女関係の煩悶を経験したことで近親感を覚え親しくなりました。その藤村に鼎は気になる従兄弟・槐多について相談したりしました。その槐多は京都の中学校在学中に、夏休み期間などを利用して鼎の父母のいる信州大屋に滞在し、自然の中で自由を満喫し、絵を描き、絵をパリにいる鼎に送ってきました。その絵にみなぎる強烈な生命力に圧倒された鼎は、槐多を保護し育てたいという強い師弟愛を一層強め、しばし悲恋の石井みつへの想いが薄らいでいくのを覚えました。そこで、先に帰国する小杉に槐多の世話と指導とをねんごろに頼むのでした。
大正3(1914)年7月に第一次世界大戦が勃発、フランスは300万人の動員令を出し、パリから成人男子が消えようとしていました。郵便物は停滞し、列車は軍隊専用車となり、地下鉄は不通となり、銀行の取り付け騒ぎが起こり、物価が高騰、隣国ベルギーがドイツ軍によって侵略され、やがてパリにも爆弾が落ちるようになります。こうした状況のために、ゆっくりと絵を描いたり、友人たちと談笑したり、美術館巡りをしたりできるゆとりが無くなりました。そこで鼎はパリを離れ、同年9月5日にロンドンに避難しました。美術館巡りや木版工房でカレンダーづくりの仕事をしたりして暮らし、翌1915年8月に、小康を得たパリに戻りました。約1年弱のロンドン滞在でした。父からは借金の催促に参っているという便りが届いていており、帰国を考え始めます。イタリア旅行を企画しましたがイタリアの参戦でそれもかなえられなかったのですが、翌大正3(1916)年3月になって希望をかなえることができました。鼎より4歳ほど年下で美校出身の洋画家・青山熊治と共にフランス南部の都市リヨンを経って、フローレンス、ミラノ、ボロニア、ラベンナ、アッシジ、ローマ、ナポリ、ボンベイ、フローレンス、ピサ・・・など、11都市、87か所の美術館を巡って、4月17日にフランス・リヨンに戻りました。帰ると恩師・桜井虎吉の訃報が届いており、死に目に会えないことを嘆きました。5月に藤村が帰国、自身も帰国の準備をし、パリのカフェでの歓送会が開かれ、6月30日にパリを経ち、ロンドンに滞在したあと、7月8日に船でノルウェーのベルゲン港に着き、スウェーデンのストックホルムから夜行列車に揺られて夏のロシアに入国しました。

◎ロシアでの滞在
大正5(1916)年7月にモスクワに着くと山本鼎は日本領事館へ赴き、そこで平田領事に迎えられ、平田領事の別荘に泊まったのち、自ら宿舎に投泊し、「モスクワ」「平田領事夫人」「サーニャ」などの油絵と、版画のためのスケッチをしました。油彩の「平田知夫領事肖像」もこの頃描かれたものです。ロシア人少年の油彩画「サーニャ」は鼎の代表作に一つになりました。モスクワ在住の日本人40人ほどは大方ビジネスマンであって、芸術家は稀であったからか、鼎の人柄に惹かれたのか、平田領事は鼎を厚遇し、平田領事の避暑地(ダアチャ)別邸に招いてくれました。そこで鼎は快適な夏を過ごし「ダアチャの夏」などを製作しました。またロシア滞在中に古都ペテルグラード(現サンクトベルグ)を訪れてエルミタージュ美術館などを訪ねました。
そして、平田領事から伝えられたのであろう鼎は、早稲田大学の留学生としてロシアに滞在中の片山伸(1884~1928)に出会いました。彼はロシア文学者でレフ・トルストイの人道主義的生き方に共鳴しており、帰国数年後に早稲田大学にロシア文学科ができるとそこの主任教授(のち学部長)となったばかりか、鼎の児童自由画教育運動に共鳴し、白秋らと共に刊行された『芸術児童教育』の編集委員を務めるなど、鼎の協力者になりました。この片山の勧めによって、鼎は9月にモスクワ近郊の、トルストイの館がある「明るい林間の空き地」を意味するヤースヤナ・ボリヤーナを、大阪毎日新聞から派遣されたロシア語のできる黒田乙吉を伴って9月15日に訪れます。トルストイは自分の故郷である当地に農民の子供たちのための自由主義的な小学校を創り、自ら児童を指導しました。この館で鼎らはトルストイ夫人(未亡人)の昼食に招かれました。夫人はトルストイが晩年、家を出て放浪の旅に出て客死したことを涙ながら嘆いたと言います。また、トルストイが『戦争と平和』を執筆した地下室に案内されました。この地でも鼎は村の光景をスケッチしました。これに先立ち徳富蘆花はじかに生前のトルストイに会ってその人柄と人道主義に感銘を受け、日本にトルストイの思想を紹介しています。しかし鼎が訪問した時には、トルストイその人はすでに他界していました。片山伸もまたトルストイの思想から大きな感化を得ていましたが、鼎もまた、トルストイの農村の子供たちへの教育に深い感銘を受けました。そしてまた、10月にはモスクワで「児童創造美術展」及び「農民工芸品展示所」(クリスタリヌイミュゼ)を見学し、農民が農閑期に家具や玩具を創るという日本にはない企画に驚くとともに、ぜひ日本でも自由な児童画の教育と農民が美術や工芸を行う施設を創ろうという意思が生まれました。
当時ロシアは革命前夜でありましたが幸い革命の騒乱がまだ始まらない時期にこうした児童画の教育に触れることができたのです。もし鼎のロシア訪問が2,3年後にずれていたなら、ロシアへの入国もかなわなかったかもしれません。現に、バイオリニスト小野アンナ夫妻はロシア革命が起こると、日本本国からの、ロシア滞在中の日本人に対して帰国指令が出されましたので、大急ぎで結婚式を挙げて日本へと向かっています。
幸い鼎はロシア革命前にこうした運動に触れ、3,4か月間にわたるロシア滞在をしたことで鼎に予想しなかった深い影響を、鼎自身のみならず日本の児童画教育社会と農村社会にもたらしたのです。
鼎は大正6(1917)年12月7日にモスクワを発ち、シベリア鉄道で帰国の途に着きました。12月28日に神戸港に着いて児島虎次郎などに帰国の挨拶を済ませてから両親が待つ信州の大屋に戻ったのは、大晦日の日でした。

◎帰国と結婚
帰国を前にして山本鼎の下に、人を介して「方寸」や「パンの会」を通して親しくなった北原白秋から、25歳の妹いゑ(家子)との結婚話が寄せられていました。山本鼎ははや34歳に達しており、鼎にとってありがたい話であり、心が弾んではいましたが、一方で借金のこともあり、また、帰国して行なおうとする児童自由画教育運動や農民芸術運動の構想もあり、さらに自己の画業のこともあって、希望と杞憂との混じる真冬の汽車旅行でした。
大正5(1916)年12月に帰国してから両親の下で大正6年の正月に無事帰国を祝い、両親に欧州やロシアでの生活や北原いゑとの結婚話などを報告し、また、大屋の青年互助団体「大友会」の帰国歓迎会に臨んだりしました。しばらくして上京して、親友の小杉未醒や倉田白羊、支援者の渡辺六郎などの友人宅を回り、また、白秋に会って白秋の妹いゑとの結婚話について確認し、また、北原家三女のいゑとも会って結婚の意思を確かめ結婚の準備に入りました。
また、白秋の弟でいゑの兄に当たる北原鉄雄経営の阿蘭陀書房(のちのアルス書房)から青少年向きの油絵入門書を頼まれましたので、執筆に当たった結果、帰国翌年の大正7年8月に『油絵ノ描キ方』がアルス社から出版され好評を博し、借金の一端を返却できました。この書は鼎が著名になるにつれ昭和まで版を重ねて続きました。すなわち、鼎が帰国後約8か月後に出版した『油絵の描き方』(初版、大正6年8月)は、以後縮小版(大正8年7月、改訂版(昭和4年)と出版を重ねてベストセラーになります。
翌大正7(1917)年9月に両親のいる信州大屋で結婚の準備を整え、新居を芥川龍之介や室生犀星、それに友人の小杉未醒らが住む文化村・田端に新居を準備して結婚にこぎつけました。また、鼎といゑは戸籍のある大屋の実家に戻って12月20日に婚姻届けを出しました。いゑは色白で文才と画才のある人物で、夫の芸術活動に理解を持つ白秋を兄に持っており、また、夫の本を出版する兄の北原鉄雄を持っていました。このように、鼎といゑとの結婚は北原家と鼎との絆を強めたのであって、この結婚は結果論からすると、逆説的ですが、鼎の石井みつとの破談あってのことでした。ただ残念なことに、いゑは心臓に問題を持ち病気がちになることがあり、鼎は妻を看病しつつ多忙な日々を過ごすことがありました。それでも、いゑはのちに太郎と次郎という二子を授かることになりました。
この月9月に、上野公園内で、再興した第4回院展(日本美術院展)のために監査の仕事をしつつ、ヨーロッパでの自作「ベルゲン港」「自画像」「ブルターニュの夏」「サーシャ」「モスクワの夏」など17点を特別出品しました。また、第4回二科展に赴き、二科会に所属していた石井柏亭に会って仲直りし久しぶりに親交を温めました。交流を断ってから長い期間に、柏亭の妹・石井みつは他家に嫁ぎ、鼎も白秋の妹いゑと結婚して状況が大きく変化したことで、互いによりを戻すことになったのでしょう。
さらに、鼎が「(創作)版画」を提唱してから、洋行している間にかつて鼎が「日本版画倶楽部」など小規模な版画の会が結成されていたところ、鼎はそれらをまとめる団体を創ろうと奔走し「日本創作版画協会」を結成しました。

◎児童自由画運動の展開
山本鼎がロシアから持ち帰ったのは、児童自由画運動と農民美術運動とでありました。このアイディアの具現化に当たり、鼎の意図を理解し、鼎の手となり脚となって全面的に協力したのは、上田・神川地域の農村青年たちでした。鼎の帰国直後の、大屋青年互助会が催した帰国歓迎会で、鼎は神川村国分の養蚕農家兼銀行家の息子・金井正と、友人・山越脩蔵が鼎の想いに強く共感しました。いったん鼎が上京し、その後大屋に帰郷したとき、鼎の欧州での話を聞きたいという彼らの要望に応えて、大正6年2月に、上田町の料亭で鼎は金井・山越と会談すると、農村の改革に情熱を抱く二人はいたく共感し、その具体化に立ち上がりました。金井は鼎の4歳年下の31歳で、西田幾太郎や田辺元などの哲学書やウイリアム・ジェームスの書を原書で読んだりする学究肌の青年でした。すでに、大正3年には、村の青年有志と図り、自己の蔵書を提供して巡回文庫を創設したり、長野の上田中学校に西田を招聘して哲学講習会を開くなど、農民に文化の潤いを与えるべく、農民の啓発運動を行っていました。金井のよき相談役としての山越侑藏は、同村国分の製糸業者の家出身の、これまた学究肌の青年でした。

◎第一回児童自由画展の開催

【神川小学校】

【神川小学校】

帰国後1年した大正7(1918)年12月17日に、山本鼎は神川小学校に近隣の学校の教員を集めて「児童自由画の奨励」と題する講演を行い、日本での、児童に教科書の手本通りに描かせる臨画教育を批判し、児童の創造性を引き出し育てるのが図画教育の真の姿ではなかろうかと、児童が観て感じたままを表現する自由画教育の推進を訴え、聴衆に感銘を与えました。この小学校には大正4年に金井の父が亡くなったときに金井が高価なオルガンを寄付しかつ鼎の油絵をも寄贈しており、神川村の金井、神川小学校山越、神川小学校出身の宮坂勝彦、神川小学校の岡崎袈裟男校長ほか教師たち、そして岡本・郡視学官及び組合学校7校の校長が鼎の意見に賛同して発起人となって児童自由画展を準備しました。鼎は大正8年3月に「児童自由画展覧会趣意書」を発行し、「従来、小学校で行われた児童の絵画教育は、大体、臨画と写生の二方法でありますが、此処で『自由画』を称へるのは、写生、記憶、想像等を含む➖即ち、臨本によらない、児童の直接的な表現をさすのであります」と、臨画と写生に偏した図画教育に異を唱え、かつ、児童の創造性を育む絵画教育の必要性を訴えました。この趣意書は金井らの手によって広く配布された結果、大正8(1919)年4月27・28日の両日に神川小学校で記念すべき第一回児童自由画展が開催されました。
鼎は、上田・小県地方の34校と郡外20校から集まった9,800点の児童の作品から1,085点を入選作とし、さらに優秀な300点を選んで作者に賞状と賞品を与え、また、参考室にモスクワやニューヨークの児童画を展示しました。会期中、校門前には露店が出るほどの人出でした。このときに講演会が開かれ、鼎は元より、モスクワで懇意になったロシア文学者の片山伸が駆けつけ、東洋幼稚園長の岸辺福雄(鼎は「園長の像」として岸辺の肖像を描いている)も講演に加わりました。その上、岸辺に同行した同地出身の信濃毎日新聞記者・尾崎章一は、この盛況ぶりに眼を見張り、4月30日から3回にわたり児童自由画展覧会について報じました。鼎は、読売新聞日曜版に児童自由画について寄稿し、片山は『中央美術』誌6月号に感想文を発表し、こうして、児童画展覧会は全国的に知られるに至ったのです。この会に参加した片山伸は、ロシアから帰国後の多忙の間をぬって、はるばる汽車に揺られて、展覧会の前日に大屋駅に到着し、雨の中を鼎とその妻いゑに迎えられて、鼎の両親の家に泊めてもらい、翌朝、からりと晴れあがった天気の中、千曲川の清流に沿って会場に着くと、会場前は縁日のような賑わいで、会場を見て回ると、7つの部屋に展示されている児童画は何回見ても見飽きないほどであったと、感想を記しています。

◎「日本児童自由画教育協会」の結成と児童自由画教育運動の進展
第一回児童自由画展が成功裏に終わった大正8年4月から約3か月後の7月に、これに関与した山本鼎、金井正、山越脩蔵、片山伸、岸部福雄、読売新聞社記者の谷好夫、それに石井柏亭の弟で画家で彫刻家の石井鶴三、西洋画家の坂本繁二郎、美術学校教授の長原幸太郎らで「日本児童自由画教育協会」が結成されて、鼎が会長に就任しました。
続く9月23~27日に、第一回児童自由画展に刺激を受けた長野県下伊那郡の教育者たちは、竜丘村小学校で鼎も参加して、第二回児童自由画展が催されました。応募数6,372点の中から入選者790点が展示され、この度も盛会でした。講演者は山本鼎、片山伸、そして信濃教育会の久保田俊彦(島木赤彦)も壇上に上がりました。主催したのは以前から自由画教育を実践してきた東京美術学校予科出身の木下茂雄でした。懇親会で鼎は万歳三唱の下で胴上げされるほど歓迎されました。その後、木下の下で優れた児童による自由画が描かれて、下伊那の竜丘村小学校は有名になりました。
この展覧会より2か月ほど前の大正8年7月には、鈴木三重吉主催の児童文芸誌『赤い鳥』第4巻第1号から児童の自由画の応募が始まり、鼎が選評を行うことになりました。さらに、同年12月には、『赤い鳥』に続いて刊行された児童文学雑誌『金の船』の創刊号に鼎の児童自由画募集文が掲載され、2巻1号から応募された児童自由画を鼎が選評をしました。『赤い鳥』は童話・童謡の投稿のみならず児童の自由画の投稿を含める総合的児童誌になったのです。のち、大正14(1925)年4月5日から4月30日まで『赤い鳥』の主催で四谷区番衆町(現・新宿区新宿5丁目)の新宿園(箱根土地株式会社所有)で「自由画大展覧会」を開催しました。『赤い鳥』の呼びかけで集まった応募作品は2万点に及び、うち378点が優秀作に選ばれました。審査員は石井鶴三、長原幸太郎、山本鼎、木村荘八、清水良雄(のち平福百穂加わる)でした。
大正8年にもどると、12月に、東京・本郷小学校で自由画展が開催されて鼎が講演をし、東京にも児童自由画教育の灯がともされました。年をまたいだ大正9(1920)年2月には、東京・神田神保町の写真家・野島庚三の「兜屋画堂」で、日本児童自由画協会主催の児童自由画展が開催され、鼎は石井鶴三や長原幸太郎らと約200点を選評しました。石井鶴三は『中央美術』誌にこの時の感想を書き、さらに、同年4月に、東京・赤坂溜池の三会堂で児日本童自由画協会主催で東京日日新聞協賛の児童自由画展が開催され、鼎、長原幸太郎、岸辺福雄、平福百穂、坂本繁二郎、石井鶴三らによって審査がなされました。この時、全国から何と約5万点の応募がありました。そしてまた、『みずゑ』誌180にも三会堂展についての感想が掲載されました。同月、立て続けに、京都府中郡二峰山町の小学校で、中郡教育長らが発起人となって、児童自由画展が開催され、自由画600点が展示されました。続いて九州にも自由児童画運動が広がります。九州日報社主催による児童自由画展が開催され、鼎は片山伸とともに京都から福岡に移動し、講演を行いました。さらに、同大正9年6月には、大阪朝日新聞社主催の「世界児童自由画展」が開催されて、12月まで37か所で巡回展が行われました。その上、この月の11~13日の間、大阪朝日新聞社で児童自由画展が開催され、鼎は児童自由画について話し、大阪府立四条の中学校教諭・牧田宗太郎が「英米の図画教育」について語りました。さらに7月には、鼎は図画教育研究会第6回大会に招かれて自由画について論じました。この時、自由画について批判が出て論争となりました。『中央公論』8月号に鼎が「自由教育の要点」を発表すると、9月号に3名の批判論が掲載され、『図画教育通信』『図画研究』『教育研究』『教育時事』でも批判論や反対論が展開されました。
さらに、秋田県でも、自由画教育が活発に展開されました。「青年教育者同志会」の幹部・石黒雄治が大正10年8月に自由画教育論文「自由画について」を著わし、地方紙『秋田魁新報』が「第一回児童画募集」を大々的に行われ、大正12年10月に秋田県で「全県図画研究会」が大々的に開催されるなど、鼎の自由画教育論が秋田県で受容されました。
このころ、沢柳政太郎が創設した新教育実験校・成城学園でも自由画教育が始められました。そして、大正10年12月に沢柳の帝国教育会で鼎は5日間にわたる自由画に関する講演をこなしました。成城小学校の開校時に沢柳の下で練り上げられた「私立成城小学校創設趣意」の4つの「希望理想」の最初に個性尊重が掲げられ、第3項に「心情の教育」が挙げられており、成城では情操教育を重視しており、鼎の児童自由画の本質と一致していました。その成城小学校の美術教育教員として、小原国芳主事に大正9年4月に迎えられたのが、鼎の児童自由画教育に共感する斉田喬訓導でした。斉田は美術科の中の絵画科で大正9年4月から病で退職する大正12年までの約3年間自由画教育を実践し、成城学園の教育研究誌『教育問題研究』の大正11年6月号、7月号、8月号、11月号に4回にわたって「自由画教育について」を発表しました。それは主に山本の自由画教育を批判した論文に対して、山本の代わりに反論したものでした。その斉田は「日本児童自由画協会」の後身「自由教育協会」(大正8年設立)に、大正11年12月から、協会員の一人として参加しました。都内の自由画教育実践で顕著な学校として、林曼麗は自著『近代日本図画教育方法史研究』の中で、自由学園、成城小学校と共に、浅草千束小学校の杉本茂晴の実践を挙げています。
杉本は長野県南安曇郡三郷村温住吉出身の教師で、鼎の『自由画教育』を読んだ後、大正11年ころ鼎と知り合い、鼎に千束尋常小学校に来校を願い、子どもたちの作品を批評してもらいました。その作品は、鼎が主宰した『アルス大美術講座』の論文中に多数収められたのです。杉本が自由画教育を千束小学校で実践したのは、当時の「極端なほど画一的注入的な図画教育」に対して杉本が強い違和感を覚えたことと、当時この学校の校長であった上沼之丞(長野県出身者で、のちの新教育実践校の浅草・富士小学校校長、日本における「新教育協会」創設者の一人)に児童本位の図画教育実践の許可を得たことで開始されました。そして、児童の「描く楽しみ」を喚起しつつて、大正10年10月から本格的な自由画教育の実践に入ったのです。
「自由画教育の要点」で鼎は、これまでに全国35か所で児童自由画展が行われたことを述べたあとで、自由画が誤解されないように、定義し説明するとして、自由画と言う言葉は、不自由画対しての言葉であること、模倣ではなく創造の意味を持った言葉であること、図画教育画が美術教育の一教科であること、子どもの想像力育成を無視した、数十万人をひとつの『国定臨画帖』に基づいて教育することに反対であること、美術教育と美術家教育とを混同してはならないこと、美術教育は感情教育であるとともに知性の教育を含む人格教育であり、愛をもって創造を育む教育であること、など、自由画教育の児童の想像力を育む面を強調しました。そして、大正9年末に「日本児童画協会」を「日本自由教育協会」に改組しました。

◎『芸術自由教育』誌の刊行と児童自由画教育論の展開
この改組は、自由画のみならず、児童生徒の自由作文や自由詩などまで包括する組織への改組でした。名称変更に呼応して、大正10(1921)年1月に、『芸術自由教育』誌(編集委員:片山伸、岸辺福雄、北原白秋、山本鼎、出版:北原鉄雄のアルス社)が創刊されます。創刊号には、片山伸、山本鼎、岸辺福雄、足立源一郎、石井鶴三、など自由画運動関係者と共に、北原白秋、与謝野晶子らの作家と西村伊作や鰺坂国芳(小原国芳)ら新教育関係者の文章も掲載されています。鼎は創刊号に、これまでの児童自由画運動への批判に応じるべく「自由画教育の反対者に」を載せました。この総合的な芸術誌は画期的ではあったものの、諸処の事情で長続きせず、残念ながら同年11月号、第1巻第10号で打ち切られました。
神川小学校で第一回児童自由画展覧会が開催されてから約1年半後に、鼎は自分たちが提唱している児童自由画運動について文書化する必要が出てきて、批判に対する反論と説明を行うことになりました。『芸術自由教育』大正10(1921)年7月号に発表した「消し難き火」をもとに、同年12月にアルス社から発行された鼎の主著『自由画教育』の中の「自由画教育の使命」(24~54頁)で彼の児童自由画に関する理論と信念とが吐露されています。
これによると、『中央公論』誌上で「自由画教育の要点」(『自由画教育』1~23頁)を発表してから1年になるとし、この間に全国に児童自由画教育が普及し「消し難き火」となりました。しかし様々な批判と反論が顕われました。文部省が国定教科書『新定画帖』で模範(手本)を示したが、「児童がそれを模倣することを定め、しかもさまざまな約束が示範されているものであり、児童の自由な創造を阻んでいる」と指摘します。そして、従来の図画教育は、「まったく見ることの喜びを顧みなかった。知恵の自由も技巧の自由も妨げて子どもの内の装飾の本能を委縮させてしまった」と論じます。自由画展覧会が各地で催されましたが、多くの誤解や曲解も生じており、誤解の例には「画家の好奇心から子共の自由画の幼拙な面白味を有頂天に歓迎してその画風を広めようとするものだ」とか、「自由画ばかりが絵ではない」「自由画教育では、自制とか謙遜という美徳を破壊し、過激思想の危険性を含んでいる」などがあり、また、「自由画とは絶対無干渉の放任主義であり、邪道である」との批判があるが、これは自由を絶対的なものと考えることからくる極論であり、「自由はいつも相対的なものでありかつ普遍的なものである。自由教育とは、教師の自由勝手に教育する教育ではなく、自由そのものを教育する教育である。自由を制限したり、圧迫することが教育であるというが、自由を拘束したのでは、決して人の本質は良くはならない」。「子供が楽しみながら描く。描くことによって、自然の活き活きした姿や形や色彩や形や調子の交響楽に親しむ、その中で美の観念が培われ、美術に対する愛を知り、やがて、常に観ることの喜びを持つ潤いのある生活が恵まれる。・・・」「お手本から解放されると、たいていの子供は、感覚も認識も技巧も驚くべき発育を見せるものだ」と主張しています。
「自由画教育はリアリズムに建っている。絵画史上のリアリズムではなく、ただ、各々の眼で見よ、各々の魂で見よ、各々の趣味で統べよ、という哲学的リアリズムだ。だから私はまずお手本を否定し、モチーフの無限性を広くしたのである。モチーフまで子供に選ばせるということは示範教育になれた教師にとって最も不服な点であった。しかしモチーフを選ぶ際にその人の価値観が現れるのである」。
「私は小学校の美術教育に絵画と彫塑を課したい。・・・中学校では、美術史と美術雑話を課したい。・・・手工科は小中学校共に課したい。・・・“学校は単に学ぶべき児童のためばかりではなく、教師も愉快に教えることができるように建てられなければならない”とトルストイが述べたが、正にその通りである。・・・」
➖このように鼎は熱く自由画について論じました。
鼎の児童自由画思想の要約とも言うべき言葉「自分が直接感じたものが尊い。そこから種々の仕事が生まれてくるものでなければならない」を、同僚の洋画家・中川一政の文字により、児童自由画発祥の上田。神川小学校校庭の「山本鼎先生顕彰碑」に記されています。

◎『美術家の欠伸(あくび)』とその後の児童自由教育運動の継続
大正10(1921)年は、イギリスで(国際)新教育連盟が発足し、日本では教育師範学校で新教育研究会が委任され、また、羽仁もと子・吉一夫妻の「自由学園」が創設されました。このように、大正自由主義教育運動が高まった時に、新教育運動と連動して、山本鼎は児童自由教育運動を牽引してきて、その頂点に達したのです。さらに全国各地で自由教育展が展開されますが、同時にのちに述べるように、鼎が先頭に立つ農民美術運動も並行して活発に展開され、成果を挙げていました。
鼎はこの二足の草履を履きながら、全国各地で講演し、かつ、児童画の選評や監査などに明け暮れ、挙句の果てに執筆活動を行い、家庭生活もままならず、本職である画家としての活動がまったく停滞しました。パリからロシアを経由して帰国したのが大正5年12月、34歳の時であり、北原いゑと結婚したのが大正6年9月、そして翌大正7年6月に「日本創作版画協会」を結成しました。8年に入ると、児童自由画運動と農民美術運動に献身します。まさにこの多忙期に、エッセーの「美術家の欠伸」(大正8年18日、信州長倉村にて)を書き、ロシア革命という激変に驚き、かつ、「我が絵の平凡な表現にあきあきした」と述懐します。大正10年2月に、ロシアを含める欧州での思い出と、「自由画教育の要点」「農民美術と私」などを含めた軽妙な文体の『美術家の欠伸』がアルス社から出版されます。画家としての活動停滞を嘆く口語体の文章です。しかしいったん始まった二つの運動は、鼎のこうした状況にもかかわらず、また、鼎の手放した後も社会現象にまで発展していきました。

以下に、主として、山本鼎『自由画教育』等の記述をまとめ整理した、上田美術館編集・発行の『山本鼎のすべて展』末尾の「山本鼎年譜」から、その後の経緯を辿っていこうと思います。
『美術家の欠伸』が発行された大正10年2月と同じ月に、群馬県高崎市公会堂で自由画展が催され、山本鼎、片山、岸辺が講演しました。日を置かず、第一回児童自由画展が行われた長野県神川小学校で、自由画教育研究会が行われ講演を引き受けました。同じようにして同月に長野県松代小学校で自由画教育についての講演行ったと思うと、長野県下伊那郡座光寺小学校で児童自由画展が開かれ、1,000点が展示されました。
2か月後の大正10(1921)年4月には、開校した東京・豊島区の自由学園の美術科主任に就任します。これは、それまで教員の経験がなかった鼎が初めて教職に就き、実際に自由画を指導することになったことで、また、初めて定期的に収入を得ることになったことで、鼎にとって、そして美術教育界にとっても画期的な出来事でした。この件について後で改めて記します。
同年5月に、千葉県師範学校付属小学校で児童自由展が開かれ、千葉県に縁がある倉田白羊と共に講演を行いました。さらにこの月に、山梨県師範学校付属小学校で児童自由画展が開かれ、鼎が招かれて講演を行いました。そして、同月に埼玉県師範学校付属小学校で児童自由画展が開かれ、山崎省三と共に招かれて講演を行いました。こうして、千葉、山梨、埼玉と関東3県の教師養成校で展覧会や研究会が行われたことは、各県の教育の本山的な学校から児童自由画が認められたことを意味します。
6月に、横浜市浦島小学校で児童自由画展が開かれて、講演を行います。8月に、自由教育会主催の「芸術教育夏期講習会」が長野県北佐久郡軽井沢の星野温泉で開催され、全国各地から100余名の学校教師が参集しました。このとき鼎は「美術教育と小中学校」と題する講演を行っています。また、北原白秋、片山伸、岸辺福雄、島崎藤村、沖野岩三郎、木下茂男らも講演しました。140人の参加者がありました。同月に埼玉県児玉小学校で図画研究会に招かれて講演をします。そして、12月に主著『自由画教育』が発行されるのを最後に、この頃から児童自由画展の開催がばったりとなくなり、代わりに農民美術関連や版画関連の行事が空白を満たすようになります。鼎は大正8年から10年の約3年間の児童自由画展等の盛り上がりの後に、40歳から児童自由画運動から手を引いた形になりました。一因に、二足の草鞋はきつくなったことと、児童自由画が全国に広まって、各県、各学校で鼎がいなくても展覧会が行われるようになったこと、自由画教育の指針となる『自由画教育』が出版されたこと、などが考えられましょう。実質的に諸校をめぐって行う児童自由画教育活動から引退しましたが、代わりに自由学園での教育に専念する道が拓かれます。

◎自由学園での美術教育
羽仁もと子による懇請によって、山本鼎は大正10(1921)年4月に創立直後の自由学園に招かれ、美術科主任として就任し、自由学園に週2回出講することになりました。「自由学園」といい「自由画」教育といい、同じ「自由」の名称を掲げ、児童生徒の自由性を尊重し、互いに児童生徒の特質や創造性を伸ばし育むという同一のコンセプトを共有していたのですから、鼎は自由学園が重視する情操教育の指導者にはもってこいの存在でした。鼎の方では、自由画の流布への関与のみならず、それまで不足していた図画教育実践の場が与えられたことは、願ったりの事であり、しかも定期的に収入が確保できるのです。爾来、鼎は病に倒れる1942年秋まで実に20年間自由学園の美術教育に携わり、羽仁夫妻の教育事業に参与しました。そして、現在まで続く自由学園固有の「自由学園工芸研究所」設立を主導したのです。自由学園に塑像科が昭和3(1928)年にできると、鼎は同志ともいうべき彫刻家・石井鶴三を推薦し自由学園に招聘しました。
自由学園は、羽仁もと子・吉一夫妻によって、大正10(1921)年に文部省の高等女学校令に寄らない各種学校として創設されました。小学校卒業後の女学校(本科5年)と高等科2年の7年間の生活則教育で、自由・自主・個性を尊重する一貫教育を施す学校です。この自由学園の教育方針は、鼎の、芸術を教育や社会と結び合わせて行こうとする芸術教教育の方向性や理想に一致するものでした。鼎の「美術の時間」は、本科(女学校)では、必修科目としては1か月に16時間、週3時間は生徒の自学で進め、月に1,2回出講して、1回3時間ほどの批評と指導を行うというものであり、その3時間は細分されるのではなく3時間を美術教育に集中的に充てる集中方式を取ったところに特徴があります。また、美術の指導陣は、鼎に加えて、4年後に桑重儀一が、大正13年には木村荘八が美術科美術史を担当、同年には第2回絵画展覧会が開催され、本科生が運営に当りました。また、のちに、石井鶴三や吉田白嶺や山崎省三が美術科のスタッフに加わります。カリキュラムは、絵画、工芸、鑑賞批評からなっていました。昭和3(1928)年からは、毎週土曜日に全員が美術を学ぶこととなり、1~3年生までは手芸と絵画を学び、4年生以上は木彫科と意匠(デザイン)、美術科、手芸科、塑像科、毛筆科、裁縫科と別れて学ぶようになりました。自由学園の美術教育の特徴の一つは、手工芸や裁縫科で行われる教育で、毎年の美術展覧会と同時進行で工芸展覧会が開催され、生徒が製作したクッションやテーブルクロス、鞄などと、洋服が展示されます。このように、自由学園の美術教育は充実したものになりました。
こうしたことを基盤として、また、鼎の農民美術研究所の実践で学んだ自由学園卒業生は美術工芸研究のためのヨーロッパに派遣されて、ドイツのバウハウス運動などを学んで帰国し、昭和7(1932)年11月に、自由学園に「工芸研究所」が創始され、以後、目覚ましい活動が繰り広げられます。このように山本鼎の自由学園教育に果たした役割は大きいものがあります。その上、鼎自身の美術教育実践経験の蓄積もまた、大きいものがありました。大正13(1924)年3月発行の東京女子師範学校講師の藤五代策との共著『児童と図画』(または児童と玩具手工)は、自由学園での実践から産まれた自由画教育指導法の書です。内容は自由画の定義、指導者の問題、児童生徒が絵を描くことから何を学ぶかの問題、絵の種類、画用品、自由学園の生徒とカリキュラム等図画教育の実際が述べられており、自由画教育のテキスト的役割を持っていました。
鼎の児童自由画運動の引退から自由学園での美術教育の実践を通して、鼎は自身の自由画教育の実践を積み、美術指導者としての道を確立しました。と同時に、自由学園の美術工芸教育に多大な足跡を残したのです。

◎クレパスの発明
山本鼎が自由学園で自由画指導の教育実践を行う中で、鼎は児童生徒が自由に表現できる画材として、従来の描くのに固いクレヨンや柔らかすぎるクレパスの中間の画材をクレヨンの製造者である「桜商会」の佐々木昌興に提案しました。当時クレヨンは夏場にねばねばし、冬場に硬くなったりしていました。佐々木は鼎の要望に応えて、ヤシ油、硬化油、木蝋、カルナパ蝋、パラフィンを使用し、練を棒状にして、クレヨンよりソフトな「クレパス」(佐々木の命名)を創り出しました。その結果、クレパスはクレヨンに比べて自由な表現能力を持ち、色がパステルのように良く混ざり、児童画に理想的な機能を持つに至りました。そのため、クレパスは児童画を全国に普及するのに役立ちました。クレパスは鼎の児童画教育実践を通して発明され、今も使用されている画材であり、鼎の功績の一つです。

以上が現在進行中の山本鼎に関する評伝的文章の概論で、枝葉となる部分や参考文献を省略したものです。この後の「上田自由大学」の結成や「農民美術運動の展開」や在野の洋画団体「春陽会」(1922年~)での芸術家としての活動は、ここでは触れません。最後に山本鼎の主著『自由画教育』(大正10年)などから、山本鼎の現在まで続く自由画教育、そして美術教育の在り方を示し、現在学校での図画工作・美術教育に音楽教育を含める芸術教育時間がもっと重要視され、もっと時間数が与えられるべきであるという主張につなげたく思います。

【油彩「信濃路、秋深く」】

【油彩「信濃路、秋深く」】

「雲は天才である」(石川啄木)とか「芸術は爆発である」(岡本太郎)の名言があります。これらの言葉は、芸術がもっぱら理論や分析をする知性とは違って、物事の本質に直接切り込む直観的思考を表わしています。芸術教育や情操教育は、受験科目とか学力という、分析や理論を重視し、暗記主体で、点数化し、優劣を付ける科目とは別な、分析不可能で、優劣をつけがたい人の情操面をはぐくもうとする教育です。
もし、人の情操面の教育がおろそかにされると、温かみのある(人間性のある)人格ではなく、情緒のない冷たい知性のみが支配する人格が育ち、平気で人を蔑んだり、冷酷に人を非難したり、裁いたりする人物が育つことでしょう。情操教育は人の心の根底の愛とか憐憫の情とか、思いやりの心を育む教育です。
学校教育で将来この人格形成に欠くべからざる情操教育重視の風潮が高まり、情操教育の時間を充実させるための参考になればと、この文章を綴りました。最後に、山本鼎の児童自由画に関する文を掲げて、この文章を締めくくりたく思います。

「自分が直接感じたりものが尊い。
そこから種々の仕事が生まれてくるものでなければならない。」
「自由画教育は、愛をもって創造を処理する教育だ。従来のような押し込む教ではなく、引き出す教育だ。だから自由画教育に教師たる資格は、美術界の知識に富んでいることでも、水彩画が描けることでもない。ただ生徒等の創造を愛する心➖それがあればよいのである。」

山本鼎は、創作木工版画の開拓者、油絵作家、児童自由画運動提唱者、農民美術運動提唱者、美術教育者、作家、講演者、と誠に多彩な活動を行った人物です。世間ではともすると、芸術家がその他の領域に活動を広げることを邪道といって蔑む傾向があるなかで、一介の芸術家が多彩な活動を繰り広げたのは稀有なことと言わなければなりません。それが可能になったのは、彼の意見に耳を傾け、率先して行動に移した信州の農村青年たち、そして、山本鼎の芸術上の思想を理解する多くの同志たちに恵まれていたからにほかありません。また、大正時代の自由が高揚する時代背景があったからです。今日、彼が切り拓いた道を歩んで、情緒豊かで、美しい社会を創りたいものです。(2022年12月)

【主要文献:山本鼎『自由画教育』アルス社、1921(大正10)年(復刻版:黎明書房、昭和57年)、小崎軍司『山本鼎伝』信濃路、昭和54年、山本鼎『美術家の欠伸』アルス社、1921年。上田市立美術館『(開館記念特別展)山本鼎のすべて展』上田市立美術館2014年】

 

 

以上、岩間浩先生による現代教育への大切な警鐘をしっかりと受け止めよう!
ところで前回、過去に講演会にお越しいただいたと書いたが、実は一度(2019/01/13)黒川五郎教授との鼎談を催しており、その内容は一般財団法人《花の家》機関紙『アイステーシス』の特別号に掲載されている
もしご興味のある方は、《花の家》(下記メールアドレス)までご連絡くだされば、取り寄せ可能である

hananoie2011@gmail.com

さて次回は、今回の文章の内容等について行なわれた、岩間➖川手による質疑応答をご報告する予定である

二○二三年一月二十六日中国厦門
屋我地診療所治療教育外来代表
川手鷹彦

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