治療教育という道 その十三

投稿日:2023年04月04日(火)

古代ギリシア以来の教育理念パイデイアについては、黒川五郎教授との一回の遣り取りで区切りをつける予定であったが、前回ご紹介した黒川教授よりの返信内容が余りにも触発的であった故、もう一往復させたいと思い、以下の問いかけをした

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謹啓

春風の候、先生に於かれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます

パイデイア(古代ギリシアの美的藝術的教育)についてのご丁寧な且つ具体性のあるご返信ありがとうございました
本件につきましては当初一回の往復メールにて終えるつもりでしたが、貴兄よりの充実した返信内容、特にプラトンの『饗宴』に関わる極めて重要なご指摘がありましたので、ここに今一度やり取りさせていただきたく、お願いいたします
本件は屋我地診療所ホームページに記載されます故、『饗宴』を未だご存知ない方のために、著作全体の骨子も明らかにしながら議論を進めていきたいと思います
また、本著作は世界哲学史と人間教育に計り知れない意味を持っているとともに、私個人にとっては、もうひとつ別の意味があります
それは、貴兄がプラトンに並べて言及された我らの師匠村井実先生についてのことです
一九七○年代後半、アメリカの大学を中退して帰国し就職していた私に、不足する教養を授けてくださったのが村井実先生で、私は或る時はひとりで、或る時は数人の仲間たちと、先生のご自宅まで押しかけては教えを乞うたのですが、先生が先ず始めに学習テキストとしてご提示くださったのが、正にこの『饗宴』でした!
懇切丁寧にプラトンとソクラテスの思想をご教示してくださり、若き日の思想形成の根幹になりました
そんなことも懐かしく思い返しながら、黒川五郎のご助言通り、『饗宴』を読解していきたいと思います

饗宴Symposiumについて

■形式・設定
二重間接説話法による対話篇

■背景
対話の舞台となるこの饗宴が為されたのは紀元前四一六年アテナイに於いてである
悲劇詩人アガトンによるディオニューソス演劇祭での優勝の祝勝会として催された宴に参加したソクラテスの弟子アリストデモスから、若年の弟子アポロドロスが聴いたところを、再び二三の友人に物語ったことにしている

アポロドロスがソクラテスの弟子になったのは、紀元前四○三年、友人たちに話したのは紀元前四〇〇年であるから、アポロドロスがアリストデモスから宴について聴いたのは、その三年の間ということになる

尚、プラトンが直接体験したことではなく、又聞きの又聞き、それも事象後十六年を経て、という設定は、内容に客観性を持たせる意図からである

■内容
エロースについての賛美演説からアポロドロスの伝えたのは六人であるが、特に重要と思われる三人の演説内容は以下の通り

医師エリュキシマコス
医術、体育、農業、音楽、天体の運行は全てエロースの力による調和ハルモニアと和合ホモノイア(一致協力)・シンフォニア(共音)によってリュトムス(節奏)が整うことにより成り立っている
そして藝術教育パイデイアとは、そのようなエロースの諸作用を使って作曲或いは創作し、また詩歌音曲の韻律を誤りなく聴き取って演出することである

喜劇詩人アリストファネス
人間には三種の原初的形態があり、男女の他に両性具有があった
当時の人間の形姿は、ルドルフ・シュタイナーも伝えるように球状を呈しており、迅速に転って前進していた
というのも男性は太陽から、女性は地球から、また両性兼備したものは月から生まれたので、形状も親に似たのである
かくして人間は恐ろしき力を持ち、誇り高く、遂には神々に挑戦するに至った
そこでゼウスと他の神々は、人間を生かしたままに弱体化させる手段を取った、即ち彼らを真二つに切断し、直立二本脚歩行による凶暴性喪失と人口増による供物・贄の充実という、一石二鳥の結果を得たのである
さて両断された原初原形の人間だが、いずれの半身も他の半身を求めた
男だった者は男の半身を求め、女だった者は女の半身を、両性具有だった者は異性の半身を求めた
ところが再融合への欲望は強過ぎ他のことをする気にならず、飢と一般的活動不能のため死んでしまうのだった
ゼウスはこれを憐み別の手段を案出した、背についていた隠し所を前へ置き換えることで、男性が女性の内に懐胎させ、女性は子を妊み産むことができるようにした
同性同士の場合は、懐妊はできないまでも、その会合と抱擁に充足を感じ、欲を鎮めて、人生の営みを顧慮できるようにした
上述の事情から、相互愛が人間に植えつけられ、太古の状態への再結合を求めることで内的治癒を得られることになったのである
この内最も優秀な者は男子単性の片割れである
彼らは本質上大胆と勇気を持ち、政治を司るに相応しく、全生涯を通して友情と親交を持ち続けることができる
………………………………
さて、今かりに、鍛冶屋の神ヘファイストスが仕事道具を携えて、愛し合う者たちに訊ねるとする
「人間どもよ、お前たちが夜も昼も互いに離れず一体で居たいと願うなら、お前たちを一緒に鎔かし鍛接し、生前のみならず死後の冥府に於いても尚一体で居られるならば、お前たちは満足するのか?」

そのとき「否」と答える者は、ひとりとして無いであろう
それどころか旧くから憧れていたことを、聴かされたという感じがするであろう
何故なら、その状態こそ我々の原初原形だからであり、そのような全き者であることへの憧憬と追求をエロースと呼ぶのだ

ソクラテス
先ずはアガトンとの問答によって以下のことが明らかになる
エロースは美しきものを欠いている故に美しきものを欲する、しかも善きものこそが美しいのであるから、エロースは善きものをも欠いている
そしてソクラテスは本題にはいるが、エロースについて彼自身の見解を述べるのではなく、ディオティマ というマンティネイヤの婦人から聴いた話として語る
ディオティマは当時アテナイに実在した巫女であるとも言われているが、生身の人間ではなく、ソクラテスに霊感を与える霊存在という説もある
ディオティマによれば、エロースは美しくないからといって醜いわけでもなく両者の間の中位を占めている、丁度正しきドクサ(意見)が智見(フロネーシス)と無知(アマテイヤ)との中間に位するように
エロースはつまり美しく滅びざる神と醜く滅ぶべき人間との中間に在る偉大なダイモーン(鬼霊・神霊・妖精・精霊)、全智者である神でも無智者人間でもないフィロソフーンテス愛智者である
次にエロースの愛は善きものの永久の所有へ向けられ、肉体の上でも心霊の上でも美しきものの中に生産しようとする
それは不死への愛求である
肉体に生産しようとする者は異性との恋愛へ向かい、子をつくることによって、不死を得ようとする
一方、霊魂に生産しようとする者には、詩人と全ての創作家が含まれ、フロネーシス智見とアレテー徳という名の《子》を産もうとするが、それらの《子》が不死であるのは言うまでもない

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『ガラティアの勝利 (Trionfo di Galatea)』
Raffaelloラファエロ作
1511年頃フレスコ
295×225cm
ヴィラ・ファルネジーナ

ガラティアは海の老神ネレウスの娘で海の精霊 その頭上に見えるのがローマ文化以降クピド(キューピッド)と呼ばれて変容したエロース

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霊魂に生産しようとする者が、美しき魂を宿す子どもに触れるなら、肉親よりも真の意味で深きエロース愛情を持って、その子の《内なる「美」》=《不死なる子》を引き出す(教育して生み出させる)ことに尽くすであろう

以上が『饗宴』の私なりの概要です
それではこれより上記の三演説者についての私の質問にお答えくださる形でご返信くださいますようお願いいたします

Ⅰ、エリュキシマコスの演説は、医師による優れて科学的な見識になっており、アポロンやムーサの司る学問・藝術の根源は波動、リズムである、ということですが、私が特に感心したのは詩歌の表現に於ける重要点は文の内容ではなく、韻律にある、と看破したところだと思います
これ正に黒川ーシュタイナー理論による、「宇宙の創世は《音節化》によって始まった」にも通ずると思います
この辺りのご考察をいただければ幸いです

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海の主神ポセイドン神殿のあるスニオン岬(古代ギリシア語: Άκρον Σούνιον; 現代ギリシア語: Aκρωτήριο Σούνιο; ドイツ語: Kap Sounion; 英語: Cape Sounion)は、現代ギリシア国アッティカ半島の最南端、首都アテネの南南東約70km、エーゲ海に沈む夕陽の美しさで知られている

Ⅱ、次にアリストファネスによる驚くべき人類起源説ですが、ルドルフ・シュタイナーが著書『アーカーシャ年代紀より』等で展開している議論に通ずるところあり、且つ、哲学的世界観を失ってしまった現代のジェンダー論について根源的な光を与えるものと思われます
如何でしょうか?

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エフェソス(ギリシア語: Έφεσος; トルコ語: Efes; ドイツ語: Ephesos; 英語: Ephesus or Ephesos)は、小アジア、現代トルコ国西部の古代都市
月・狩猟・多産の女神アルテミスの神殿は、石柱一本のみ遺っているが、その一本で、充分、往時の荘厳さを想像することができる
古代ギリシア〜ペルシア帝国〜ローマ帝国〜セルジュク・オスマントルコと為政者や宗教権威が交代しても聖地であることに変わりはなかった
新約聖書のパウロ書簡に、「エペソ人(びと)への手紙」がある

Ⅲ、ソクラテスによる問答と演説、この部分こそソクラテス〜プラトンの人間教育論の根幹を成すものであると、村井先生も強調されておりました
即ち…

☆「霊魂に生産しようとする者」こそが教師のあるべき姿であり、「美しき魂を宿す子ども」に深きエロース愛情を注いで、その子の《内なる「美」》を引き出す教育を施さねばならない

☆教育とは大人/教師が何かを与えたり教えたりすることではない、子ども自らが「美」を産み出すよう励まし支える存在なのである

☆子どもこそが《内なる「美」》という《不死なる子》を産む霊的《母》であり、教師は以上の生産プロセスの原動力となる《エロース愛情》を捧げる献ずる《父》と言えるだろう

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パルナッソス山西南麓のデルポイ/デルフォイ/デルフィ(古代ギリシア語: Δελφοι; ドイツ語・英語: Delphi)は、古代、アポロンによる神託所として、ポリス国家群に重要な聖域であった
アテナイからは西北へ約122km、テーバイからは西北西へ約75km、スパルタからは北へ約157kmである
オイディプースへの託宣
「父を殺し母と交わるだろう(父の血を流し、また母親を妻にして呪われた一族の種付けをする)」
ソクラテスへの託宣
「ソクラテスより賢い人間はいない」
が知られる

ある日のこと、村井先生は私に向かって
➖「美」を産み出す教育法のひとつに、オイリュトミーとかアントロポゾフィなどというものがあるよ
➖な、何ですか?それは?
➖オカルト、オカルティズムだよ
➖お、オカルトって、エクソシストのことですか?
私には当時流行っていたホラー映画の題名しか思い当たらなかったし、シュタイナーも人智学アントロポゾフィもオイリュトミーも初耳だった
➖ハッハッハ、オカルトとは「隠された教え」ということだな
➖ 「隠された教え」ですか!物凄く興味があります
➖そうだろう、そうだろう、君はヨーロッパでオカルトを学んでくるといい
数年後、私はドイツへ向かった
そしてスイスのゲーテアヌムへ
後年、私は村井先生に訊ねた
➖先生のおかげで人生の道が拓けました、どうして私にオカルティズムやアントロポゾフィが向いているとわかったのですか?
➖どうしてかなぁ…、ただね、私には進路をアドヴァイスした弟子たちが数多くいるのだが、オカルト、アントロポゾフィを勧めたのは、後にも先にも君ひとりだよ!
➖え?そうなんですか!
➖そうなんだ、つまり君はね、変わり者ってことだ!ハッハッハ!
➖変わり者ですか!ハッハッハ
と二人で大笑いしたものだ
村井実は正に私の《内なる「美」》を呼び起こし、引き出した、優れた教師、現代のソクラテスだったのだ

私的なエピソードも書きましたが、プラトン〜ソクラテス〜村井実の教育理念について、ご教示いただければ幸いです

以上三点について、よろしくお願い申し上げます
春光に貴兄のご健勝をお祈りしております

敬白
二○二三年三月二十三日
中国厦門より

黒川五郎先生

川手鷹彦

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黒川教授よりの返信が来た
一読して、唸る
明晰且つ、良い意味で挑戦的!
では、お読みください

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川手鷹彦先生

この度はご連絡ありがとうございました。
ご指摘いただいたテーマは非常に重要で頭の中を整理するのにいくらか時間がかかってしまいました。
ご容赦頂ければと存じます。

さて第1のテーマについてですが、これは大変重要なご指摘で、私もかねてより同じような考えを構造主義の立場から持っていたわけですが、ここで川手先生からご指摘いただいた「宇宙の始まりの音節」というのは、より一般に哲学の世界で分節化:アーティキュレーションと呼ばれている問題領域に連なるものであると思われます。
これはまたこの「饗宴:シンポジウム」全体の問題意識に連なる問題領域でもあるかと思われますが、原初の完全な「無」の静寂の中に一つの波立ちというか、波動が生まれ、そこに陰陽の分節が生じたということが、洋の東西を問わず例えば中国のタオイズム等にも垣間見られる生成概念ということになるかと思われます。或いは、これは古代ギリシャ的には意味生成、すなわち真善美の価値の誕生と連なる問題領域として解釈することもできるかもしれません。
ここで私の哲学的な言説を少しさしはさませていただくとするならば、宇宙は無であると同時に全体であり、そうであるがゆえにそれ自らの創造の主体として自己を創造し続けざるを得ない存在様式を有しているということができるかと思われるのですが、ところが、そのようないわば宇宙論的な実存の主体として解釈されるような全体としての存在が、その内部の一構成要素にすぎない我々人間から、その生成の様式を内部から観察した場合、そこに絶対的かつ普遍的な構造が存在しているように認識することになるわけです。

要は宇宙は全体であるがゆえに自己創造者にならざるを得ないといういつもの当方の哲学になるわけですが、この問題がまた第2のテーマにもつながるかと思われます。

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アクロポリスの丘に紀元前447〜431年頃建設されたパルテノン(Παρθενών, Parthenon)は、アテナイの守護神、知恵の女神アテーナーを祀る
黒川教授の言及される黄金率1:1.618による崇高美麗な神殿である

さて第2のテーマについてはこの宇宙が1つの生成的な普遍的構造を有しているという問題に、結局は帰着するのではないかと思われます。
私はジェンダー論についてはほとんど門外漢と言っていいような人間ですので、あえて深入りさせていただくことは避けたいとは思いますが、いずれにしろ現代人がこの宇宙に普遍的に存在している生成的な構造を見いだしがたくなっているという事実、そこに根本的な問題性が淵源しているということは確かであるに違いないと思います。
この普遍的な構造を今回「饗宴」について論じているようないわゆる哲学で言うところのポイエーシスの領域、すなわち制作論の領域から考察していく場合に、現代の哲学でよく話題にされるいわゆるフラクタル(*1)の問題とあえてこの度はつなげて議論させていただけたらと思います。
ここでフラクタルというのは部分と全体が同じ構造を有しているということです。例えば雪の結晶など全体の形とその一構成要素が同じ形式と言いますか、形をトレースして描いているということです。
この辺りはGoogle等で調べていただければすぐ出てくるので、もし必要であればご参照いただければと思いますが、このフラクタル構造ということと実は黄金比の問題が深く通底しているのであり、黄金比を数学的に展開したいわゆるフィボナッチ数列(*2)という前の2つの数を足したものがその次の数列の値となるというこの単純な構造――これはルネサンス期にイタリアの数学者フィボナッチによって発見され、ダヴィンチ等も深くこの問題に対して興味を持ち、探求した特に西洋美学の根底に流れるテーマであるわけですが、古代のギリシア人も、例えばミロのヴィーナスを作成する時にそのプロポーションの胸の大きさと腰の部分の大きさの比が1対1.6となって、このフィボナッチ数列に収束していく、この1.618と言う比率に近づけているわけです。
すなわち、要はフィボナッチ数列も少し専門的なテーマになってしまいますがフラクタル構造を有しているのであり、今日いうところのフラクタルの一例ということになるわけです。
ところで、現代の人間は本質的な部分でこのフラクタル構造を結局は見失ってしまっているのであり、すなわちこの宇宙という巨大なフラクタルの一部分として人間がそのマクロ宇宙内の一構成要素としてミクロ宇宙を構成しているということの認識をその存在の深部において喪失してしまっているのであり、かつては宗教がこの構造を人間に納得させる役割を有していたわけですが、それも毎々ご指摘しているとおり19世紀のニーチェ以降の実存主義の時代の始まり(いわゆる神の死)により失われてしまっているということになるわけです。
そこでこのフラクタル構造を取り戻す必要が出てくるわけですが、それが例えば神話の世界を回復することにより成し遂げられるということになるということを、例えばシュタイナーは気付いていたのではないかと思います。
そしてこのフラクタル構造を取り戻し、このマクロ宇宙の一環として人間が個々のミクロ宇宙を生成していくという作業、すなわちそれが創作活動の本質でもあるかと思われるのですが、そのような意味でのポイエーシス、すなわち人間の都合での個々人の自己実現欲求を満たす云々というような恣意的な作品制作論という一般に見られるような地平からではなく、宇宙論的な意味での個々人の作品制作に至る必然性ないしは意味ということ、これを回復していく必要があるということになるかと思われます。

その時にこの「饗宴」という作品がまさにこのテーマに肉薄した対話編であり、ある意味での戯曲でもあるということになるのです。この作品の展開をめぐっては言うまでもなくプラトンによるイデア論が最も有名であり、これが3番目にご指摘いただいたテーマと深く繋がる問題であるかと思われるのですが、プラトンの解釈は今日の哲学で言うところのロゴス中心主義すなわちイデア論の立場からの解釈となるわけです。
ところがこの作品の最も根底的なディオティマとソクラテスの対話の中に見出されるエロースに関わる部分というのは、後に助産術などと評される教育の根本原理に触れている部分であり、それが意味するところは私の理解では、むしろイデアというよりもコーラを重視した議論であり、ここで言うところのコーラとは、入れ物、器という意味ですが、すなわちここで宇宙はあたかもマトリョーシカのように入れ子状の構造を有しており、この次々により新しいより細密な部分が生成されてくるということが創造の本質とも例えば考えられるということかと思われます。
要はマクロ宇宙から生み出されるミクロ宇宙ということですが、これがまさに宇宙が自己を創造している姿であり、結局人間のお母さんから子供が生み出されるということもそのような例としてまさに体験されているわけです。
従って教育も子供を産む時にお産婆さんがそれを手助けするという以上のことではなく、それを援助するという姿勢で接すれば良いということになるだけのことだということです。ここで注意しなければならないのはいわゆるサイエンスの原理、通常の科学の原理はこのような入れ子状の構造を全体として体現してるものではなく、むしろそれを線形化しリニア(直線的)に近似していくという機能しか持ち得ないということです。
従って我々はこの入れ子状の構造を有している芸術作品の制作や鑑賞を通して子供たちの教育に関与していくということが大事であるかと思われます。むしろ美というのはこの入れ子状の構造、あるいはフラクタルを前提として成立しているものであるのです。
通常の科学ではこのようなフラクタルを前提とした考察は不可能であり、むしろこの複雑性を線形化しリニアなアプロキシメーションすなわち近似的な模型で満足しているというようなフェイクの状態でしか認識できないということになるわけです。
一般に美的領域が有する独特の固有の複雑性、これを解釈するにはこのようなフラクタル的な認識様式が必要であり、これは通常のサイエンス・科学を超える認識の領域であって、そのことをシュタイナー等も直感していたように思われるのですが、今日我々が置かれている世界の極めて危機的な状況下の中においては、むしろこのような認識を再生し展開していくことが急務であると昨今しみじみと思われる今日この頃です。
村井実と若き日の川手鷹彦との会話などは、正にそのような美的認識の好例であると言えるでしょう。

以上ラフなスケッチというような考察になりますが、今回はこのような形でご容赦頂ければと存じます。
また細かくは今後さまざまな機会を通じて修正していきたいと思っております。
それでは皆様お元気にお過ごしください。
どうも乱筆乱文失礼いたしました。

黒川五郎

 

註釈:
*1、フラクタル(仏: fractale, 英: fractal)
フランスの数学者ブノワ・マンデルブロ(Benoît B. Mandelbrot、1924-2010)が導入した幾何学の概念
図形の部分と全体が相似/再帰しているもの
以降多くの数学者の他、自然科学、人文科学の諸分野でも、研究者たちによって「フラクタル構造」の存在が指摘されるようになった
例)
シダの葉、木の枝、ロマネスコ・ブロッコリーの形状、リアス式海岸線、積乱雲の形、銀河の分布、肺の構造、血管の構造、腸の内壁、神経回路網、株価の動向、等々

*2、フィボナッチ数列
インドでは、ジャイナ教の僧侶・詩人・学者ヘーマチャンドラ(हेमचन्द्र Hemacandra、1088頃-1172)、或いは既にそれ以前、ヴィラハーンカ(6-8世紀ごろ)やゴーパーラによって、古典詩の韻律の音節の組み合わせに於いて指摘され
中世イタリアでは、数学者レオナルド=フィボナッチ(Leonardo Fibonacci、Leonardo Pisano、本名Leonardo da Pisa 1170頃-1250頃)の紹介した
3以降の数は前の二数の和になる
即ち0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144,233…と続き、また、連続する数の比が、次第に黄金比1.6180339887…に近づく数列のこと
自然界には、花びらの枚数や黄金螺旋として、松ぼっくりの鱗模様の列数、ひまわりの種の列数、人のDNAの二重螺旋構造、台風の渦巻き、銀河の渦巻き、等に見られる

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パイデイア全般については、これにて一旦終了とし、次回はその内のムシケー、音楽、或いは詩歌音曲についての対談を掲載する予定である
お楽しみに!

二〇二三年四月四日中国広州
屋我地診療所治療教育外来代表
川手鷹彦

 

写真についてもうひと言:
ギリシアの聖地四ヶ所は、筆者もゲーテアヌム演劇学校時代に訪れたことがあり、その感動は今でもありありと甦ってくる
読者諸賢に、一生の内に一度は体験されるよう、強くお勧めする!
海外の友人に、もし日本で見るべきを訊かれたら、長野黒姫地震(ない)の滝、京都三十三間堂、奈良東大寺毘盧舎那仏、沖縄斎場御嶽(せーふぁうたき)をrecommendするように…

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