治療教育という道 その十四

投稿日:2023年04月18日(火)

今回ご紹介するのは、2023年3月13日にオンラインで行なわれた黒川五郎・川手鷹彦の対談記録である(対談のテーマについては、本コラムその十二で予告してある)

☆ ☆ ☆

古代ギリシアのパイデイアPaideia Παιδείαは、特に音楽ムーシケーを重要視していたが、
本来、詩歌音曲舞踊演劇を包括する伎藝ムーシケー、更にその伎藝を司る女神群ムーサイ(*1)の能力分野は、歴史、化学、天文学、医術にまで及んでいた
また、子どもの治療教育に於いては、叙事詩のSTORYTELLING、演劇のコロス、抒情詩の音節と子母音の響きは、特に重要である

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【リラを持つアポロン神】

では、パイデイアの細部について、黒川教授にお訊ねしてみよう

☆ ☆ ☆

 

川手

パイデイアという人間教育、現代に於いても重要だと思われるこの教育思想の中で、特にムーシケー、即ち音楽的なもの、詩歌音曲・舞踊演劇を全て含めたものの細部について明らかにしていきたいと思います

まず始めの質問です
黒川教授とルドルフ・シュタイナーに共通する宇宙創生論では、創造主が
ふたつの罪を犯した
「無から有を創る」ことと
「自分自身を創る」ことで
被造物の私たちはその罪を、藝術行為、即ち《自己創造の再現》という形で償っている
ということです
ルドルフ・シュタイナーは《宇宙創世の罪》について、例えば神秘劇第三作『境域の守護霊』の中で語っています

藝術行為という《自己創造の再現》についてですが、何故古代ギリシアのムーシケーから、狭義の音楽は独立しなければならなかったのか?(*2)
私はルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンLudwig van Beethovenの存在がすぐ頭に浮かんでくるのですが、音楽の抽象化・先鋭化・純粋化こそが、ベートーヴェンの苦悩ではなかったのか?と…
そしてその苦悩により、正に創造主の罪の償いをしていたのではないか?
藝術家たちは、何故あそこまで苦しんで曲を作らなくてはならないのか?
黒川さんも私も作曲をしますが、その最中は睡眠も忘れるというようなこともあるわけですよね?
身体が病んでしまうということさえ起きる
敢えてそんなことをしてまで私たちが音楽に身を捧げるのは、神の罪の償いのためではないのか?
この辺りについて、お聞かせください

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【Ludwig van Beethoven 1770-1827】

 

黒川

それは根本的な問いかけで、その本質を捉えている川手先生の直感に起因するというか、問いかけそのものがアーティスティックであり、そもそも「芸術とは何か」ということに通じるものかと思いますが、まず古代ギリシャには「カロカガティア」(*3)という「善美なるもの」という意味の言葉、善と美は一体であるという捉え方があったようです。

ところで、すべての今日の議論の前提として、それは宇宙の自己創造に集約されてくるということですので、そこに至るプロセスで、ニーチェ以前の従来の素朴な考え方では、宗教的な捉え方、神が宇宙を創作した。作者としての神、作品としての宇宙ということになるわけです。
科学技術や産業社会、或いは民主主義が発展する以前は、その考え方で人々は納得していた。
ところが、19世紀に至り、ベートーヴェンがそれまでの貴族のサロンから飛び出して、ウィーンの最初のコンサートホールともいうべき楽友協会(*4)で活動するころから様相が変容してきた。
哲学でいえばニーチェが出現し、そして、その影響を受けたワーグナーの時代ともかぶってくる。
ヨーロッパではナポレオン戦争が起きていて、たとえば「エロイカ」という作品をべートーヴェンはナポレオンに捧げたわけですが、見事に期待を裏切られたという話は有名です。
その時代、音楽は自由の精神を代表する、つまり専制君主に支配されていた状態から個々人が自由に自己決定して、真の自己を創造するという、近代社会の通奏低音として流れるこのテーマを展開するための応援歌のようになっていた。
今となってはクラシック音楽ですが、ベートーヴェンやモーツァルト、またヨハン・セバスティアン・バッハなど、近代的な精神の萌芽ということを象徴するような大作曲家が生まれた背景には、ルネッサンス以来の、人間が、個々人が自己の創造めざしていく過程があり、そのような民主社会成立のテーマが歴史の前面に出てきたということと、パラレルにそれに符号する形で並行して展開してゆく、当時のいわば前衛芸術でもあるということをまず押さえていただければと思います。

そして、つまりこうした近代における展開の原点が、古代ギリシャのアテナイでの饗宴という「シンポジウム」(*5)に、その原点としてのDNAがあるわけです。

したがって、今回の議論は我々の全生活領域を覆うような重要なテーマ性をも含んでいるといえましょう。

 

川手

人間主義が誤解されて西洋の覇権主義になっていってしまった

自然に対し人間は我が物顔になり、本来の人間主義が歪んでしまった

更には人間同士でも、エゴイズムによる侵略行為のようなことに陥ってしまった

古代のパイデイアが近代において正しく理解されなかったがために、侵略行為が大っぴらに行なわれてきた

全くその通りですね!

 

黒川

まずひとつ指摘したいのは、プラトンの「饗宴」(*5)に描かれたようなシンポジウム/宴を開くときは音楽が不可欠である。
女奏者がアウロス(オーボエのような構造のダブルリードを持つ笛)を吹き、それによって議論が活発化していく。

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【aulosアウロスを吹く古代ギリシアの少女】

そこではぶどう酒を酌み交わしながら、皆横たわり頭には花冠をつけ、料理を食べながら哲学的議論を享受していた。
つまり、アートとフィローソフィーというのは本来同じシンポジウムという淵源の中から出てきたもので、逆に言うとそこから音楽が独立したというのは、芸術と哲学、さらにいうなら、科学・サイエンスとが分離してしまったということ。それがなぜ起きたか?

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少なくともルネサンスまでは、そのような中世の自由七科(*6)の伝統が続いていた。昔は広義の哲学の中に音楽も含まれていたということです。アートや学問が一体のものであった。それが分岐して来たのがルネサンス以降であり、科学が一人歩きして、さらに西洋の覇権主義の道具にさえなってしまった。
科学が独立することで、歯止めが効かなくなる。
芸術というのは、科学技術の暴走から人間をまもるブレーキのような役割、ハンドリングするもの、リミットを与えてくれるものでもあったはず…

 

川手

音楽が専門化して、「音楽家」という職業になったことで、音楽行為というものが《宇宙の創生の罪を償う》という苦悩に結びついたのではないか?
この問いを重ねてさせていただきます

 

黒川

科学が一人歩きしてしまったことによって、人間が自己疎外(self-alienation)していった。
自己を傷つけてしまう。
マルクスが言っていることでもありますが、資本主義の発展が個々人を歯車化し、経済が本来の人間の能力を一つの機械の部品のようにしてしまう。本来人間の生活を豊かにするものであるはずの産業機械化や、それを支える科学が、逆に人間を操作するものに転化してしまう。
そこである意味で、それを癒やすための音楽が、贖罪のための役割を果たしているともいえましょう。

 

川手

音楽の根源とは?
という問いですね
音楽ムーシケーの女神ムーサ
これを複数にするとムーサイとなる
アポロン神に仕える女神たちムーサイが、群れをなして様々な学問藝術を司どっている
そこに天文学も含まれる
惑星の運行、太陽と月をも含んだ天体の運行は《天体による魂の舞踊》として捉えられていた!
そうした《音楽の根源》をヨハン・セバスティアン・バッハJohann Sebastian Bachは感じ取っていたのではないでしょうか?

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【Johann Sebastian Bach 1685-1750】

 

黒川

すばらしいご質問ですね。
その問いの中にすでに答えも潜在していると思いますが、私も宇宙の自己創造の始原には、リズム、波、波長、中国的な陰陽の気や、インドのプラーナ(気息)等の波動という概念との深いかかわりがあると思います。

そうした波が生じることが、宇宙が自己を創造するはじまりです。
この自己創造論というのは、本質的に一元論であり、始原の状態として措定される、仏教などでいう「無」、「絶対無」、「空」、あるいはタオイズムの太極などという動きのない静寂な状態から、或る揺らぎというか、波立ちが偶発して、宇宙の自己創造が創発したというような立場をとるわけです。
まあ、これは一元論だからそうした言い方しかできないわけですね。

二元論だったら製作者と作品という泰然自若とした暗黙の了解があらかじめあるのですが、一元論ではそこを分けられない。製作者と作品は一体であるということ。
しかしまあ実際には、例えば白い紙に黒いペンで書かないと文字が成立せず、有意味な論理を展開することも不可能なので、この一元性から、アーティキュレイション(英語:articulation;ドイツ語:Artikulation)、すなわち《分節》が生じて、未開民族を含めて世界のさまざまの地域の民族の固有な神話が巧みに比喩的に表象しているように、二元性への分岐を説明するということになります。
宇宙全体に一つの共通の法則性があって、それがさらに陰陽等の原理に展開する。そのことを空気の振動をモデルとして、宇宙全体の性質である陰陽の波が表象されたときに、この音という問題が出てくる。
タオイズムなどでは、それをうまく制御して宇宙からのメッセージを八卦などを経由して体現するという方向です。お互いの個性的な差異を響かせあって、それが励ましになったり、リミットを提示するものになったり、時代とか歴史的な状況によって位相(アスペクト)は変わってくる。
本来どの地域の民族の言語や風習、儀礼としての身体表現にしろ、大体同じ原理です。
そして、古代ギリシャの《シンポジウム》の参加者は、このような哲学的な《饗宴》を通して、その生成的な意味空間を享受していた。

つまり人生のライフステージそのものが一つの総合芸術というか、のちのワーグナーによる楽劇みたいなものだった。そして、それが細分化されて個々の分野に展開されていった。
すなわちそれは、例えば西欧における美の原理である黄金比の法則、リズムが全領域に共通していたということでもあるでしょう。芸術においても、バッハの平均律、アラベスク様式の配置など、すべて同じリズム・生成的な構造が共有されていた。それを二十世紀以降のレヴィ・ストロース等の構造主義が解明していった。
銀河の渦巻も黄金比、ゴッホの描いたひまわりの植物としての種も黄金比によって形成されている。すべて同じリズムがそこに流れているともいえるでしょう。

 

川手

数の比率というものが宇宙の創世から決められていて、それが古代からの黄金率というものである
十字架も横と縦の比率が約1:1.618である時、一番美しく感じられる
宇宙の創世から、いつもいつの時代にもその比率が、人間の感覚に組み込まれている
それがバッハの音楽にも表現されている
楽曲のあるべき長さ、繰り返しや逆走(逆奏)の妙、巧みな和音の組み合わせ、等々を、バッハは感覚的に感じ取って作曲していたので、自閉症の子どもたちが
『平均律第一番プレリュード』
を聴くと、とても落ち着く、ということが起きる

 

黒川

バッハの音楽が自閉症の子どもたちの心を落ち着かせるということがあるのは、正にこの黄金率との関わりにあると思います。

 

川手

では本日最後、三番目のテーマに移りましょう
治療教育に於いては、言語藝術の三つの分野、叙事詩・演劇・抒情詩を非常に重要視しています

1、叙事詩、即ちストーリーテリングが思考・表象イマジネーションを育てる

2、ごっこ遊びや演劇が、古代ギリシア演劇に於けるコロスの役割りのように、物事を進行・発展させていく人間の意志の発達を促す

3、抒情詩の音節と子母音の美しい響きが子どもの心に美しき感情を育くむ

これらは、治療教育だけではなく、ルドルフ・シュタイナーの創設した自由ヴァルドルフ学校に於いても、この三つの分野の言語藝術を子どもたちが生き生きと体験できることが、非常に重要だと、教師たち、未来の教師たちに伝えられています

正にこれが、シュタイナー教育/ヴァルドルフ教育のパイデイア実現だったのでしょう

 

黒川

中世の天文学の時代から言われているように、宇宙の惑星の運行にもつながるようなリズムというものがありますね。
ギリシャのピタゴラスは数学者であり、また音楽家でもあった。
弦を使った三倍音(*7)の実験をしている。そこから宇宙のリズムがピタゴラスの定理にも結びついていて、音と数というのは本質的には同じ表現の仕方ということでしかない。

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【Pythagoras Πυθαγόρας c. 570 – c. 495 BC】

「音楽は感性の数学であり、数学は理性の音楽である」
というのは、イギリスの数学者であるジェームス・ジョセフ・シルベスターの名言ですが、そういう捉え方をしていただければと思います。その両方に共通しているものに、黄金比というものがある。

宇宙には黄金比というものがあって、知性というか、感性の領域においても、キリスト教徒が歴史を通じて常に思い描いていたように、神がいかに世界を精巧に作っているのかということが垣間見られる。
非常に法則的、調和的に作られたこの素晴らしい世界を自分は生きているんだという世界観の中で教会音楽を創作していたバッハは、その中で自らの作品を通して神の偉大さ、栄光を讃えている。
自分の作品を評価してもらうとかではなく、いかに偉大な神の下僕として自分が人生を全うできるかと
いうテーマ。
私なりに言い換えれば、宇宙の自己創造の一環として、人間としての個々人の人生を生きること。これがバッハの人生の目的であり、その時に、神の栄光と自分の創造が一致したということがまさに黄金比であり、それを支えた音楽理論が平均律でしょう。

 

川手

平均律は原語のドイツ語では、”Das Wohltemperierte Klavier”「善く調弦・調整されたピアノ/鍵盤楽器」という意味です
非常に具体的ですね
つまり、美しい音を創り出すためには、曲自体の美しさを実現する楽器の状態、更にはその楽器を扱う調律家や演奏家の能力、様々に転調したり、編曲する作曲家の才、それに対応可能な鍵盤や弦の水準、等々、も重要な役割りを持つ、ということです

それに加えて、これらの作品群は、ヨハン・セバスティアンが息子たちの教育用に書いた、という背景があります
とてつもなく高貴で「善美な」音楽教育ですね!

 

黒川

未開民族の時代から、人類は宇宙の創造を月の満ち欠けなどを通じて感知していました。

そこにはある種の周期性リズムがある。
それらの自然現象等を通して、神々の躍動する神話が作られる。
そして言葉だけではなく儀礼も行う。儀礼=祭りを通して体
感して祝うということです。
その結果、神話と儀礼という二大ジャンルができる。
さらに、時代が進むとともに、この二つのカテゴリーが融合して、新しいジャンルとしての演劇が成立する。
たとえば、古代ギリシャのアテナイにおいては、アガトンという詩人の受賞祝いとしてのシンポジウムが、この「饗宴」の舞台となります。そこにおいては、人生そのものがライフステージ上で展開する芸術作品、彼らの言う善美なる人生の展開としての、いわば生活芸術でもある。
要は、この宇宙において、善く、そして美しく生きるということです。

 

川手

神々の行為というものが人々に伝わるときに、神話という形をとった

神話が人々に物語として伝わった
物語が宇宙の創生を伝えるという特定のものから、徐々に子どもの心を育むものとして、ストーリーテリング/素語りへと発展し、題材も多様化していく

こうして、藝術が教育に展開していき、教育は善と美を、宇宙の真善美を担うこととなった

 

黒川

川手先生が展開している治療教育の価値はそこに淵源していて、ルドルフ・シュタイナーという人を経由して、継承していく真の後継者が川手鷹彦でもある。

 

川手

覇権主義により、古代から続いている藝術を否定する形になりつつあった時代に現われたルドルフ・シュタイナーが、本来あるべき人間教育を提唱した
特に藝術と治療教育を重要視した
そういう意味で一旦失われかけた、《創生の罪を償う藝術行為》をルドルフ・シュタイナーが復活させた意味は、測り知れなく大きい
《亡びかけた自己創造行為の復活》を東洋に於いて、私たちは実践している
私個人ではなく、藝術、教育、治療教育に真摯に関わる人々皆が、パイデイアの継承者であり守護者であるのだと思います

(対談 了)

 


*1、ムーサ(Mousa Μοῦσα 藝術女神)或いはムーサイ(Mousai Μοῦσαι藝術の女神たち)が司る伎藝をムーシケー(mousikē μουσική)と言い、音楽に関連する学問・藝術全般を指した

ムーサイの女神群はアポロンの支配下にあり、時代と観察者によって数、名称、役割が変化した
次はその内の一例である

カリオペー                Calliope          Καλλιόπη   叙事詩
クレイオー                Clio                Κλ(ε)ιώ              歴史
エウテルペー             Euterpe    Εὐτέρπη            抒情詩
タレイア                   Thalia    Θάλεια              喜劇・牧歌
メルポメネー             Melpomene  Μελπομένη   悲劇・挽歌
テルプシコラー          Terpsichore  Τερψιχόρα     合唱・舞踊
エラトー                   Erato      Ἐρατώ                 独唱歌
ポリュヒュムニアー    Poly(hy)mnia   Πολυ(υ)μνία   讃歌・物語
ウーラニアー             Urania    Οὐρανία             天文

 

*2、音楽ムーシケーの狭義化の兆しは既に古代ギリシア時代にも見られた
プラトンは音楽の伝統的多面性を主張したが、その一方で、楽曲の主観的感情的表現が好まれ、舞踊や詩歌を軽視する流れもあったと言われる
とはいえ、ホメロスによる叙事詩、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスによる悲劇、サッポーによる抒情詩等によって基盤付けられた詩歌音曲の伝統は未だ揺るぎなかった
次はプラトンによるムーシケーに関わる名言である

・リズムとハーモニーは、魂の内奥への道を見出す
・ムーシケーは大宇宙に魂を宿らせ、悟性に翼を与え、想像力を飛翔させ、そして凡ゆるものに生命を授ける

音楽がいよいよ専門化し出したのは、本文中にもあるように、やはり近代になってからであろう
ベートーヴェンの生涯1770-1827 は、世界に先駆けてイギリスで起こった産業革命期にほぼ重なっている
七年戦争(1756-1763)の勝利と産業革命が、イギリスをして近代世界に於ける覇権国家の先陣を切らせしめ、その後の世界規模での人心と価値観の変化に大きく影響したことに、疑う余地はない

 

*3、カロカガティアkalokagathia
kalokagathia=kalos「美」+kai「且つ」+agathos「善」
人の魂の三領域、思考・感情・意志に於いて善と美が一致して調和している状態
音楽の「調和」を重要視したピタゴラス学派による、善と美の合一は、心身の調和的発達を理想とするパイデイアによって、真善美の融合として完成され、ソクラテスの産婆術、プラトンの宇宙論、アリストテレスの藝術理論の基盤となった
時代を越えて本思想はフリードリヒ・シラーの美的教育論、ルドルフ・シュタイナーの自由ヴァルドルフ学校の実践へと継承・展開された

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【Friedrich Schiller 1759-1805】

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【Rudolf Steiner 1861-1925】

 

*4、ドイツ語の正式名称は
Die Gesellschaft der Musikfreunde in Wien「ウィーン音楽友の会」      
現地での通称は
Wiener Musikverein「ウィーン音楽協会」
1812年設立

 

*5、『饗宴』(古代ギリシャ語原題:Συμπόσιον/シュンポシオン、ラテン文字表記:Symposion 転じてSymposium)
プラトンによる著作の内容等については前回「治療教育という道、その十三」で説明済み
プラトンの描く饗宴/シンポジウムは、哲学・藝術談義を楽しむ宴だが、現代では宴という意味合いは失われて談義の部分のみが残った
公開討論会・研究討論会・研究論文集、等を意味する

 

*6、パイデイアを起源・手本とし、欧州中世には大変重要視された基礎学藝
文法・修辞学・弁証法の三科trivium
算術・幾何・天文学・音楽の四科quadriviumの七科からなる

 

*7、倍音とは、ある特定の音「基音」の周波数に対する、もうひとつ別の音の周波数の関係性をあらわす
即ち第二倍音とは二倍の周波数の音であり、一オクターブ(完全八度)上の音になる
第三倍音とは三倍の周波数の音で、一オクターブ+完全五度である

 

☆ ☆ ☆

以上、対談の記録を、黒川、川手、其々が、其々の部分を確認・訂正したものである

二〇二三年四月十八日 中国広州
屋我地診療所治療教育外来代表
川手鷹彦

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