治療教育という道 その十九

投稿日:2023年07月08日(土)

黒川五郎教授による示唆
《医療機関とは違う、むしろ教育機関に近い、それぞれの個性や才能を開花させ援助していくという方向の、新しい学校でも病院でもないような施設を建設する必要性》
このテーマについて、考えてみよう

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自閉症女子16歳、水彩

 
☆ ☆ ☆
 
このような試みについて、過去に学べることはないのか?
言及できるものが、二例ある
ひとつは、自身が自閉症「サヴァン症候群」であったと思われるハンス・アスペルガーHans Asperger(1906-1980)らによるウィーン大学小児クリニック治療教育部門の実践
もうひとつは、偉大なる作家ヘルマン・ヘッセHermann Hesse(1877-1962, 1946年ノーベル文学賞受賞)の代表作『ガラス玉演戯』である
どちらも大きな題材なので、今回はウィーン大学小児クリニック治療教育部門の実績について、次回に『ガラス玉演戯』、三回目には現在私たちが試みている取り組みについて、それぞれ書きたいと思う
 
☆ ☆ ☆
 

1940年頃のHans Asperger Google Images

1940年頃のHans Asperger

《治療教育Heilpädagogik》という言葉は1861年刊行の、J.D.GeorgensとH.M.Deinhardtによる著書“Heilpädagogik mit besonder Berucksichtigung der idiotie und Idiotenanstalten, Zwölf Vorträge zur Einleitung und Begründung einer heilpädagogischen Gesammtwissenschaft”, Leipzig: Friedrich Fleischer【『治療教育、知的障碍と知的障碍者施設を特に考慮して、治療教育の総合的学問研究の導入と確立への十二講義』Friedrich Fleischer刊、ライプチッヒ】に使用されたのが初めてと云われる
以降、先ずはスイス、ドイツ南部(*1)で学術用語として定着し、それがドイツ語圏全体に伝わり、現在では世界各地の言語に翻訳され使われている
治療教育の根幹となる考え方は
「機能の不具合を治すのではなく、別の視点から観て、一見回り道をしているようで、徐々に全体のバランスを整えていく“umgehen und ausgleichen”」
というものである
歩行のできない子どもがいる時、勿論歩けるようになるのが一番良い
しかし、どのような処置をしても歩けないのであれば、歩行訓練に固執するより、歩行以外の、且つ歩行に深く関わる思考や言語活動を励ますことにより、先ずはそれらの分野が向上発達して、それが結果的に歩行の可能性にもつながっていく、という考え方、方法である(*2)

1930年代、ウィーン大学小児病院治療教育部門でのHans Aspergerと子どもたち

1930年代、
ウィーン大学小児クリニック治療教育部門での
Hans Aspergerと子どもたち

オーストリアでは、ウィーン大学小児クリニック治療教育部門がその思想・方法論を取り入れた
初代Erwin Lazar(1877-1932)から代表職を受け継いだHans Aspergerは、医療行為に捕らわれず、持ち前の博学多識を活かし、古今東西の名作からひとりひとりの子どもに相応しい作品を選び、課題として与えた
Aspergerには初代Lazarの頃から当部門に勤務していた教育主任Viktorine Zakという有能な人材に恵まれた
Zak女史は、臨機応変で現場での感覚、子どもらへの対応に優れ、Aspergerから指示のあった作品や課題を、子どもの状況に合わせて、読み聴かせ、ごっこ遊び、演劇、音楽、絵画、言語療法などを用いた療育プログラムに変容発展させて施し、Aspergerから全幅の信頼を得ていた
 
Zak女史の子どもへの見事な対応の様子の記録が一部残っている(*3)
 
Er wiederholt die Frage, oder stereotyp immer wieder
ein Wort aus der Frage, das ihn anscheinend beeindruckt hat; oder er singt: “Ich mag das nicht sagen, ich mag das nicht sagen – – –”.
フリッツは訊かれたことを鸚鵡返しするか、気に入ったひとつの言葉を一本調子に繰り返した。さもなくば、歌う「僕は言いたくな〜い、僕は言いたくな〜い〜〜」
 
(中略)
 
Fritz ist des Rechnens müde und “singt”: “Ich mag nicht mehr rechnen,
ich mag nicht mehr rechnen – –”die Lehrerin: “Nein, du brauchst nicht zu rechnen
(und in demselben ruhigen Tonfall fortfahrend): wieviel ist – –” So primitiv solche pädagogischen Mittel scheinen, die Erfahrung zeigt, daß sie meist Erfolg haben.
フリッツは算数に飽きるとまた歌う「僕は算数もうしたくな〜い、僕は算数もうしたくな〜い〜〜」すると先生は優しく「そう、算数なんてしなくていいのよ、フリッツ」
そして穏やかな口調のまま「で、答えは…」このような教育方法は一見素朴で単純に見えるかもしれないが、殆んどの場合うまくいくものである。
 
(Aus der Wiener Universitäts-Kinderklinik )
Die “Autistischen Psychopathen” im Kindesalter
Von
Doz. Dr. Hans Asperger,
Leiter der Heilpädagogischen Abteilung der Klinik.
(Eingegangen am 8. Oktober 1943.)
ウィーン大学小児クリニック治療教育部門代表ハンス・アスペルガー医師兼講師による
『小児期の自閉的精神病質』
(1943年10月8日発表)
 
Hans Asperger最前列右端、1930年代、ウィーン大学小児クリニックスタッフ 写真はAsperger の三女で精神分析医の Maria Asperger Felderの好意によりGoogle Imagesが使用・提供

Hans Asperger最前列右端
1930年代、ウィーン大学小児クリニックスタッフ

Aspergerは一部上記引用したように、1938年と1943〜44年に極めて重要な論文を書き上げている
そして以下は、Aspergerの考え方が良く表われている文章である
 
Die Kunst, die durch die stürmische Härte der Zeitalter hindurch stand und überlebte, hat die unermeßliche heilende Kraft, die vom menschlichen Verstand nicht verstanden wird,
Und solche Kunst ist besonders ein unersetzlicher Begleiter für “die Kinder, die Schutz der Seele brauchen”.
時代の荒波を乗り越え生き残ってきた藝術には、人知で計れぬ治癒力があり
そしてそのような藝術は、特に「心の守護を必要とする子どもたち」にとって、かけがえのない同朋となる
 
Asperger は自閉症の子どもたちを、その特徴的な話し振りから、ユーモラスにかつ敬意を込めて“little professor”と呼び、また、子どもたちが神経系に深刻な困難を抱える一方、並外れた能力を有していることに気づいていた
その一好例が上述した少年Fritz V.である
Aspergerは少年が小児クリニック治療教育部門を卒業/退院した後も追跡調査を続けた
フリッツは高等学校在学中に、何と既に、ニュートンの運動方程式の一部誤謬を指摘し修正している!
 
老齢のHans Asperger

老齢のHans Asperger

1940年代以降、他の多くの分野がそうであるように、治療教育でも国際的に使用される言語が英語になり、かつ、ウィーン大学小児クリニックの深刻な被弾により、Aspergerの業績は一時世界シーン/場面/情景から消えてしまう
治療教育史・医学史に於いて極めて重要な件(くだん)の業績は、イギリスの女性医師Lorna Wingによって、1981年に紹介される
女性医師と敢えて記したのは、Wingの娘が自閉症のしかも、所謂Aspergerタイプで、神経系の不具合がより深刻な所謂Kannerタイプのように社会福祉や療育の対象にはなっていなかったことが、この再紹介への大きな要因となったからである
Wingは自身による多数の診察例から、それまで「自閉症」と診断されてきた子ども以外に、自らの娘を含め、知的能力が高く言語による意思疎通が可能ではあるが、社会性等に「ある種の困難さ」を持つ子どもらも、公的援助が得られるべきだと考え、Aspergerの論文を英語で紹介し、これらの子どもたちは、Aspergerによって既に「自閉症」と呼称付けられてはいたが、彼らにも社会的援助が付与されるよう、敢えて「自閉症」ではなく「アスペルガー症候群」という新診断名を与えた
こうして、高機能自閉症及びアスペルガー症候群にも社会福祉や療育を享受する道が拓かれたのである(*4)
 
ウィーン大学小児病院治療教育部門

ウィーン大学小児クリニック治療教育部門

註3に説明したように、ウィーン大学小児クリニック治療教育部門の新病棟は1944年の爆撃によって、当時の治療教育に関する記録とともに焼失してしまった
不幸中の幸いに、1935年に、米国より訪れ治療教育部門を視察したJ.J.Michaelsの記録が残っており、Asperger自身の二論文とこのような貴重な残存資料から、関西大学の研究グループが2013年に優れた報告書を作成している
インターネットで検索すれば閲覧できるので、是非とも目を通していただきたい
 
ハンス・アスペルガーの1938年講演論文とウィーン大学の治療教育
関西大学人権問題研究室紀要
2013-09-30
 
他にも、英語・ドイツ語による論考・紹介は多数存在する
本邦でもAsperger の貴重な業績が、広く知られるようになること、また既存の教育観に捉われない闊達な議論が望まれる
 
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以上、ハンス・アスペルガーHans Aspergerを中心としたウィーン大学小児クリニック治療教育部門の実践を紹介した
次回はヘルマン・ヘッセHermann Hesseの『ガラス玉演戯』を取り上げる予定である

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ダウン症成人男性、水彩

二〇二三年七月八日 中国武漢
屋我地診療所治療教育外来代表
川手鷹彦
 
 

*1、ドイツの北部と南部は、今日でも、プロイセン、バイエルン、と呼び合う等、歴史・文化的背景が異なり、領域・分野によっては、ドイツ南部とスイスが共通することがある
例えば言語であるが、北部ドイツ語は低地ドイツ語/Plattdeutsch, Niederdeutschと呼ばれ、南部ドイツ語とスイス・ドイツ語はアルマン語Alemanischと呼ばれることがある(但し、厳密な言語学的分類ではない)
 
*2、“umgehen und ausgleichen”
本件については、かつて二十代の頃に、スイスの治療教育施設に勤めている、やはり二十代の治療教育者と、大激論を交わした、懐かしい想い出がある
子どもの抱えている身体的機能的不具合に関して、彼は治さないと断言し、私は治すと言い張った
スイス人の彼は、父母との信頼関係は不具合を治すことではなく、子どもを生涯に渡って、少なくとも成人するまで面倒見るところにあると主張
一方私は、治らないと諦めていたものが治るからこそ、父母の信頼が得られると壮語した
今思えば、両者の議論は前提が異なっていて、例えば遺伝子情報として言語活動や歩行があるのなら、療育によって実現するし、なければ実現は極めて難しい
そして、たとい、遺伝子情報にあったにせよ、不具合そのものに直接働きかけるだけではうまくいかず、まさに迂回と平衡によって根気よく関わり携わっていくことで、望ましい結果が得られるのだ
 
*3、1944年、大戦に於ける爆破によって、資料は失われ、Zak女史も帰らぬ人となってしまった
真に残念なことである
それらの資料が遺り、Zak女史がその優れた教授法・教育藝術を次世代に引き継ぐことができていたなら、と、儚い仮定・夢想をしてしまう
通常私たちは、公立学校に於ける普通教育が社会の基盤になっていると考えるが、ルドルフ・シュタイナーは治療教育こそが文化の核心であるべきだ、と説いた
私はこの説に大賛成である
というのも、巷で注目されている、所謂「統合教育」と呼ばれるものは概してうまく機能しない
それは「特別な保護を必要とする子どもたち」つまり「不具合を持つ子どもたち」は所謂健常児に合わせるべきだ、という心理が働いてしまうからである
けれどもその逆に、治療教育の現場に健常児が来るとうまくいく
何故なら、そもそも治療教育というものは凡ゆる状況、凡ゆる問題を抱えた子どもたちに対処しようとするからである
かつ、凡ゆる異なる能力を認めようとするからである
本件については、次次回に具体例を挙げてご説明したい
 
*4、高機能自閉症とアスペルガー症候群は厳密には異なる症例である
高機能自閉症は、所謂カナータイプ、または古典的自閉症と呼ばれる、対人関係の構築等に著しい困難を持つ自閉症の内、知的能力の高い人々を指す
一方、アスペルガー症候群は、ある程度の社会性を持ち、かつ知的能力も高い人々である
因みに古典的自閉症=カナータイプのカナー/Kannerとは、アメリカJohns Hopkins大学の医学者・精神科医Leo Kanner(1894-1981)のことで、1943年に論文“Autistic Disturbances of Affective Contact”で自閉症を報告している

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