治療教育という道 その二十一
一九九〇年代に私はドイツ北部の治療教育施設に数ヶ月、言語教師として勤めたことがある
この施設「ハウス・アーリルド」“Haus Arild” にはスイス・ゲーテアヌムの言語造形・演劇学校に在学中既に、研修生としてひと月ほど学んだことがあり(*1)、また一九九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけても、幾度か訪問している
物理的にはそれぞれ短期間であったが、貴重で驚くべき体験は私の心に深く刻まれ、人生建築の骨格となっている
世間では一般的に障害児・障害者と呼ばれている子どもら・人々が、健常者と呼ばれる私たちより、はるかに鋭敏な感覚を持っていたり、特殊な才能に恵まれているのを目の当たりにして、彼らに対する尊敬・敬愛を持つようになっただけでなく、物事の価値基準や常識・概念が根底から覆されたのである
それは人生半ばにして二度目の産湯に浸かったかの如き、新鮮で心地良く、心の底から洗われる体験であった
そしてこの体験があったからこそ、今私は確信を持って、新時代の藝術治療教育共同体を提案することができる
『漫才師 恩齐Angie&恩迪Andy』 周子琴作
既に前々回「治療教育という道、その十九」の註の3では、以下のように言及した
所謂「統合教育」と呼ばれるものは概してうまく機能しない
それは「特別な保護を必要とする子どもたち」(*2)つまり「不具合を持つ子どもたち」は所謂健常児に合わせるべきだ、という心理が働いてしまうからである
けれどもその逆に、治療教育の現場に健常児が来るとうまくいく
何故なら、そもそも治療教育というものは凡ゆる状況、凡ゆる問題を抱えた子どもたちに、対処しようとするからである
かつ、凡ゆる異なる能力を認めようとするからである
『月之狂想曲』 小月作
即ち、教育現場の核心とは、「心の保護を求める子どもたち」(*2)が所謂健常児の尺度に合わせるのではなく、健常児をも「心の保護を求める子どもたち」として扱うことである
別の表現で言うなら
私たちは「自閉症」を始めとする「心の保護を求める子どもたち」を尊重し、彼らに学ぶ、且つそれも、そうすべきだからそうするのではなく、自ずとそうなる、そうしたくなる、のである
私たちは今、中国各地を巡りながら
散歩、朗誦、演劇、歌、《純粋藝術》(*3)、わらべうた 、昔話、絵画、そして子どもら就寝後の観察をしている
午前中 ①散歩〜②演劇
午後 自主稽古〜散歩
夕方 ③《純粋藝術》、④朗誦
夕方 ⑤わらべうた、⑥昔話
夜 ⑦ミーティング
夜 ⑧絵画、⑨工作
夜半 ⑩就寝後の観察
ひとつひとつの要素を説明していこう
☆ ☆ ☆
① 散歩は発達途上の子ども、特に「自閉症」など、神経組織に何らかの問題を抱えている子どもには、極めて重要である
歩行は、思考と言語の発達に深く関連しており、多くの哲学者や文筆家が、思考・思想の展開に滞りを感ずると散歩に出るのは、そのためである
歩行が神経系の不具合そのものを治すのではないが、その不具合によって生じている周囲との軋轢や、他者や自身への不信を、極めてゆっくりではあるが、解消していく
治療教育者には深い忍耐力が必要となる
『フラミンゴの耕耕』 周子琴作
② 演劇の台本には、就寝後の観察によって、子どもたちの《夜の意識》から直観されたテキストを取り入れる
ギリシア悲劇、シェイクスピア、ゲーテなどの名作に、それらを加味する場合もあれば、それらのインスピレーションをできるだけそのまま生かして新しい芝居・台本にする場合もある(*4)
演劇藝術の最も重要な役割は
KATHARSIS カタルシス/魂の浄化である
ヒーローの壮絶な自死のような荘厳美麗な場面から
「糞爺くたばれ」のような半諧謔的・原初的・即興的台詞まで
様々な形と深度で日々のわだかまり、募り募ったストレスは洗い流される
加えて、これまで殆んど顧みられることのなかった、舞台上での歩行について、少しく言及してみたい
普段私たちは、歩いているとき、自らの足の運びを意識することがない
けれども、舞台上では、演ずる役柄によって歩幅、歩速、上げ下ろし、交差等々を、意図的・意識的に行なう
また、演劇中に挿入される舞踊藝術は、更に繊細・優美に、上記の意識化を推し進める
これは
意志の意識化
であり、
通常ならば相互に独立して働く意志と思考、意志と表象を融合する
或いは、ルドルフ・シュタイナー『一般人間学』第五講を中心に第十講までを何度も読み直し、読み込んで、行間〜即ち講義中のシュタイナーの裡に息衝く意図〜さえも把握しようと試み、かつ少しでも理解できるなら
「意志に表象が流れ込む」
ことによって私たちは、子どもの夜の意識にアクセスする能力を得る
『耕耕の西瓜舞』 罗钧韦作
何故、意志に表象を流し込むこと、意志と思考が融合することが、子どもの夜の意識にアクセスする能力の獲得につながるのか?
それについてのシュタイナーの説明は、極めて暗示的で難解である
私が現場の人間としての体験から云うなら
歩行の意識化によって生ずる鋭敏な感覚は、舞台上の他の役者の魂の所作をも感ずることができ
そしてその感覚能力には、舞台以外の場面に於いても、他者の心の微妙な動きをも読み取ることが可能となる
『大巨人哲哲が魔法の瓶より出てくる』 周子琴作
③《純粋藝術》
②の演劇・舞台藝術から知的内容=コンテンツを抜き取り、音・響き・リズム・動き・動と静・強弱・色合い・明暗、等々、要素/エレメントのみによって表現する
歌や語りになる場合もあれば
身体の動きのみになることもあり
また「居グセ」という「畳立膝」で舞台中央に座したまま、ということもある
そのことによって②の後半部分のテーマ;
意志と思考の融合の実現
が著しく励まされる!
④ 朗誦/朗唱/朗詠
ゲーテ・ノヴァーリス・ヘルダーリン・ 李白・杜甫・王維・古より伝わる聖句等の朗誦を稽古し、⑩の夜の観察時には静かに語り、子どもらの心が宇宙の果ての井戸まで行って生命の乳水(ちちみず)を取りに行く旅の糧となり、また充分に摂ることの励み助けになるように
⑤ わらべうた
言葉と音楽、両要素が結合し、子どもらの心に大自然の豊かさ美しさと生きとし生けるものの生命の尊さへの愛と慈しみを養い育てる
♪ 綺麗なお花 黄色いお花
♪ 青いお花 不思議なお花
♪ 白いお花 白いお花
♪ 黒いお花 見たことない
『苦しみの中の静けさ』 紅輝作
⑥ 昔話は、夢の国へ入国するパスポートである
夢の国での色の洪水に溺れぬよう、眠る前に、既に豊かなファンタジーを体験する
中でも母から就寝時に聴く物語りは、普遍的な母の愛そのものの力により、子どもにとって正に夢への最も相応しいパスポート、入国VISAとなる!
『イルカの暇乞い』 耕耕作
⑦ ミーティング
主に⑩就寝後の観察に於ける役割分担、チーム分けのための打ち合わせである
必要に応じて、子どもたちとの活動に対する心構え、治療教育に関する知識、熟練者の体験談、等々
『蚊の名前を加える:平安!』 塔卡作
⑧ 絵画
演劇、《純粋藝術》、わらべうた、昔話の良い影響が、明らかに出る
時折りはスタッフだけで、⑩就寝後の観察時に並行して行なわれ、子どもらからのインスピレーションを描く
『深夜描画』
⑨ 工作
「心の保護を求める子どもたち」特に「自閉症」の子どもたちは、ともすると想像力がないと誤解される
その誤解は、彼らの想像が私たちの想像とは違うことによる
彼らの内面世界は、私たちの想像のように経験から来るものではない
彼らが描き、また形作るとき、何かを思い出しながら描き形作るのではないのだ
彼らはそのとき、直に宇宙を目の前に観て創作する!
ある子は珊瑚(さんご)を使って見事なオブジェを建設し、自分自身の万有を創造する
⑩ 就寝後の観察
子どもらの夜の意識(心理学で言う無意識、潜在意識)を感じ取る方法
⒈ お泊まり会
一回に子どもひとりづつで、スタッフは三人、内二人は子どもを挟んで川の字に寝る
三人目は隣室或いは上下の部屋で寝ずの番
四人目が観察・記録のために他所から訪れることもある
⒉ 訪問と観察
ひとり〜数人のスタッフが母子の寝室、或いは宿泊室へ行き、子どものために選ばれた詩歌聖句を無言または子音中心の囁きで語り、且つ子どもの様子を観察する
母はスタッフに加わるか、子どもと共に睡眠している
上記を根気よく結果を求めずに続けることで、かえって、母子関係等に思わぬ収穫を得ることがある
『语涵蛇+小月+母』 罗钧韦作
☆ ☆ ☆
以上のような諸プログラムは互いに有機的に働き合う
子どもたちの藝術的創造的自由は完全に保障されつつも、彼らにおもねることのない治療教育
団体を設立・組織するのではなく地域を越え、凡ゆる枠組みを越えた
地球の学校
大地の学校
The School of the Earth
宇宙の学校
万有の学校
The School of the Universe
中国では既に以下の名前で始動している
学舎《夜の散歩》
The School “Night Promenade”
完全自由な藝術共同体が世界中に拡がることを願い…
『美の本質-美の中の美』 小月作
『美の本質-美の中の善』 小月作
『美の本質-美の中の真』 小月作
二〇二三年八月三十一日 沖縄
屋我地診療所治療教育外来代表
川手鷹彦
註
*1 拙著『隠された子どもの叡知』参照
*2 本シリーズ第十五回では、以下のような説明をしている
《因みに「サヴァン症候群」も含めた自閉症児を始めとする「心の保護を求める子どもたち」「特別な保護を必要とする子どもたち」に、巷では「発達障害」という不当な呼称が与えられておりますが、この呼び方こそが優生主義の流れを汲むものなのです
厳密に正しい名称は、一般的な健常者を「定型発達」とするなら、「不定型発達」とすべきでしょう》
この説明は、他者に使う呼称についての優れて道徳的な視点ではあるものの、特に何故「心の保護を求める子どもたち」という術語を使用するのか説明がなされていない
(「特別な保護を必要とする子どもたち」は、その一方で、表現が平明なので、極めて便宜的かつ実用的な術語化であることがわかる)
これはルドルフ・シュタイナーの使用した
“Seelenpflege-bedürftige Kinder”
の意訳である
本シリーズに於いても非常に重要なテーマなので、よく準備し、次回以降に詳述したい
*3 主にピアノの即興演奏に乗り、または触発され、自由に身体表現をすることが多いが、「美」の表現の追求とともに、特に次の三点の意識化が目指される
❶ 歩行に於ける足の位置や運びに加え、手、背骨、頭等の位置
❷ 舞台全体に於ける自分の位置
❸ 自分の軸、脳天から背骨を通り抜けて踵までを貫く柱が、ブレない
*4 今回ご紹介している絵画作品の殆んどが、子どもらの夢、夜のインスピレーションから生み出されたものであり、かつ、物語〜戯曲〜台本
『何処へ行っても同じ駐車場』として集大成されたものから選んでいる
作品『何処へ行っても同じ駐車場』の成立過程については、これも次回以降に執筆する予定である
『何処へ行っても同じ駐車場』 塔卡作
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