治療教育という道 その十六

投稿日:2023年05月20日(土)

前回の問題提起に対して、優れて鋭く哲学的な文章が黒川教授から送られてきた

 

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川手鷹彦先生

 この度はご連絡いただきまして、誠に有難うございました。川手先生からいただいたこの度のテーマは、非常に重要な問題を孕んでおり、私としても昔から関わり続けてきた、ある意味で自分自身にとってもトラウマティックな側面を持っている課題であります。ご指摘のように、いわゆる自閉症児の皆様等をスペクトラム状の臨床的な概念に整序するということは不適切であり、そもそも症状主義的に疾病概念を適応するということの持つ意味を考えざるを得なくなります。その中でも、特にギフティッドチャイルドなどというネーミングの持つ本質的な恣意性についてのご指摘には、全く同感であります。
 さて、この問題を考えるにあたって、特に哲学的な観点から議論するとすれば、まず、近代におけるこの精神病理学的な諸概念、特に様々な形の精神異常という状況に対しての分節に対して、批判の眼差しを向けざるを得なくなります。この作業は有名な20世紀のフランスの哲学者:ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926−1984)によって、かつて試みられた著作『狂気の歴史』等に詳しく論述されているテーマでもありますが、今はそれについて深く言及する場面ではないと考えられます。ただここで一つ押さえておきたいことは、これはまさに哲学的なテーマでもありますが、そもそも近代における自然科学というものの持つ神話的性格に言及せざるを得なくなるということです。精神医学も明らかに自然科学の一環として、そもそも体系化されたものであることは間違いないのですが、この科学の神話的な性格ということについての認識を、批判のための基礎的作業として、まずは共有せざるを得なくなるのです。
 このテーマは、これまでもお話ししてきたように、ニーチェ(Friedrich Nietzsche 1844−1900)以降の、科学のいわば“下請け”としての哲学の在り方に対しての批判に通じるものであり、今日の哲学史においても非常に重要なテーマとなってまいりました。即ち、19世紀以降の新カント派に見られたような基礎付け主義や、さらに言うのであればカントの認識論以降の一般的傾向としての、哲学の本来の社会的使命としての創造力が無力化され、いわば科学の下僕と成り下がった姿が明らかになってきたのでありますが、その中でもニーチェの批判は非常に有効であり、ハイデガー(Martin Heidegger 1889−1976)等を経て、20世紀に最終的にフーコーが一言でまとめたように、“権力の言説化”としての科学の本質が、今日に至るまでのニーチェの後継者を通して、浮き彫りにされてきたのであります。
 このように、科学の一部としての体系をなす精神医学、これは仮にいかに臨床的な実践領域として、科学というイメージから、或る意味、少し距離を置いたような印象を与えるものであるとしても、結局は科学全般が恣意的な構成を持っていることに根ざした本質的な恣意性を孕んでいるということになります。その中でも特に人間精神の根幹に触れる領域であるという宿命を背負っている限り、精神医学は、科学としての客観性を担保するのが極めて難しい科学の一分野でもあり、そのような理由で、特に日本の医学界では軽視されてきた経緯があるということも明らかであります。医療というものは、医療者という人間の精神が、患者という人間の精神や身体を観察するところから始まります。この場合、通常の科学とは異なり、特に精神医学においては、宿命的に自己言及性を免れることができず、医療者という人間の精神が、患者という人間の精神状態を観察する。即ち、一般に人間精神における“内部観察”の様相を呈さざるを得なくなるわけです。例えば物理学者が、実験室で外部から自らの探求する事象を実験装置を通して観察するのとは異なり、原理的にこのような外部からの観察ができないということになるわけです。従って実験科学一般における操作主義的な傾向、即ち、操作できないものは存在しないとされるような通常の科学の在り方には、なかなか同伴できないのが精神医学の宿命となるわけです。もっとも、物理学においても、ミクロな領域の量子力学においては、その不確定性原理によって、厳密な古典的観察が不可能なことが証明されておりますが…。
 実際には、そのような中でも精神医学を科学としての体裁に整えるために、精神医療体制を維持し、それを基盤とした医療や教育の諸制度を維持するための権力の作用として、端的に言って自らの体制を維持するためのノイズにあたるような理解不可能な部分は、全て疾病概念に分類され、陰蔽され、閉塞的な状況に送り込まれ、事実上疾病概念が捏造されてきたという経緯があるわけです。このような経緯は最近のアメリカ精神医学会のDSM(*1)などの症状主義的な疾病分類概念においても全く同じメカニズムであり、結局のところ精神科医がクライアントをうまく操作するための便法として機能しているにすぎません。従って、このような概念にとらわれることなく、これまでの精神医療のあり方を根本から再検討する必要があり、そもそも自閉症その他のスペクトラムに分類されている子供達を含め、大人の統合失調等の病名をかぶせられている人たちに対しても、本来この人たちが医療の対象なのかどうかという根本的なところを含めて、捉え直されなければならないでしょう。そして、医療機関とは違う、むしろ教育機関に近い、それぞれの個性や才能を開花させ援助していくという方向の、新しい学校でも病院でもないような施設を建設する必要性があるのかもしれません。
 なお、特筆すべきはこのような試みの端緒が、ある意味でシュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925)における自由ヴァルドルフ学校の試みの中にも、先駆的に垣間見られるということです。この試みを萌芽として、新しい世界に向けてこれらの人たちの才能を開花させるための新たなる施設を作っていく必要があるといえましょう。ちなみに、伝統的には日本の茶道における茶室の役割も、そのための一助として展開してきた経緯が、少なくとも私の研究の中からは垣間見られました。以上このような観点をご参照いただき、今後の議論の一助とさせていただければ幸いです。それでは乱筆乱文失礼いたしました。では、今後の皆様方のご発展を祈念いたしております。失礼いたしました。

黒川 五郎

 

註

*1、DSMは、American Psychiatric Association(APA、アメリカ精神医学会)によって作成された“Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders”(精神障害の診断と統計マニュアル)の略

1980年に初版が発行され、現在は第五版“DSM-5”まであり、精神医療の臨床・診断に於ける客観的な基準設定のために作成されている
因みに“DSM-5”の邦訳では、Autism Spectrum Disorder(ASD)を「自閉スペクトラム障害」という直訳ではなく「自閉スペクトラム症」と配慮された意訳となっている

 

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以上、川手の提示した諸問題を、十九世紀末から二十世紀にかけて激動した哲学・科学史の観点から読み解いてくださった

次回以降は、この迷路/Λαβύρινθος/Labyrinthよりの脱出・解放を探っていきたい

二〇二三年五月二十日 中国広州
屋我地診療所治療教育外来代表
川手鷹彦

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