治療教育という道 その十二
これより数回に亘り、岩間浩先生よりのお便りをきっかけに始まった、黒川五郎教授との遣り取りを掲載していきたいと思う
先ずは、川手から黒川へ宛てたメールからご紹介しよう
謹啓
先生に於かれましては、益々ご発展のこととお慶び申し上げます
さて、先日私共財団スタッフの佐藤によりお電話にて取材させていただいた録音を拝聴、また口述筆記を拝読致しました(その内容は前回「治療教育という道、その十一」として掲載)
相変わらずの、見事な思考力に敬服しつつ、知的刺激を受けることも多々あり、是非ともこの機会に三つの方法で遣り取りさせていただきたく、ここに連絡させていただきます
お訊きしたい内容は以下の通りです
1、古代ギリシア以来、西洋教育史の根底に流れるパイデイアの思想は、本邦の教育現場に於いても実現可能なのか?
この質問は、上述のインタヴューでご言及されておりましたので、取り上げました
本邦含め、アジア圏に於ける教育現場では、集団としての協調はできても、個の尊重の実現が中々困難であるのが現状です
古代ギリシアの人間中心主義は、宇宙とヒトとの調和の上に成り立つもので、このような思想は古き良き日本や中国の伝統の中にも本来は有り、例えば神社仏閣が母なる自然の中に溶け込むように建設され、しかもそこにヒトの存在の尊厳は保障されておりました
ところが近代以降、私たちは物質的利己主義とでも言うべき、西洋文明の悪しき面のみを学び、経済的には豊かになったものの、環境破壊、大気汚染を推し進めました
近年、環境問題に関しては幾分好転したとはいえ、学校等現場での個の尊重について実現できているとは、どう贔屓目に見ても言えないのです
この点につき、未来の本邦教育への哲学的・藝術的御提言をパイデイアの観点からお願い致します!
『アテネの学堂』
Raffaelloラファエロ作
1509~1510年
フレスコ
500cm × 700cm
Vaticanバチカン市国・バチカン宮殿
2、古代ギリシアのパイデイアは、音楽ムシケーを重要視しておりました
本来、詩歌音曲舞踊演劇を包括するムシケー、更にその女神群ムーサの司る分野は、歴史、化学、天文学、医術にまで及んでおりました
子どもの治療教育に於いては、叙事詩のSTORYTELLING、演劇のコロス、抒情詩の音節と子母音の響きは、特に重要です
複雑・微妙な問題ですので、本件についてはオンラインで短い対談をさせていただければと思います
Das Gastmahl des Plato『プラトンの饗宴』
Anselm Feuerbach アンゼルム・フォイエルバッハ作
1869年
キャンバスに油彩
295cm × 598cm
ドイツ・Karlsruheカールスルーエ(Baden-Württemberg バーデン・ヴュルテンベルク州)州立美術館
3、上記1、で取り上げた、パイデイアの伝統から誤って派生したものが西洋にもあります
昨今に於ける、そのひとつの例がギフテッドチャイルド/Gifted Child(1921年アメリカの心理学者Lewis M. Termanによる、所謂IQ140以上の子ども千五百人程の調査研究報告や、それに先行するTerman自身の研究に始まる)で、研究者本人の意図はどうあれ、現代に於ける能力差別主義として諸国家に政治利用される結果となっています
私たち治療教育者が扱う自閉症児等に見られる異能現象「サヴァン症候群」とは根本的に異なるものです
「サヴァン症候群」は、遺伝子の突然変異による神経系の不具合にバランスを取るべく顕われるもので、「サヴァン症候群」を持つ自閉症児に、巷では「発達障害」という不当な呼称が与えられておりますが、厳密には、一般的な健常者を「定型発達」と呼ぶなら、「不定型発達」とすべきでしょう
どちらにせよ、「サヴァン症候群」或いは「自閉症」では、感覚の繊細さを守るために生ずる神経の不安定さ、それに伴って顕われる異常能力、共に尋常ではなく、ひとりの子どもに三人以上のスタッフ、睡眠中の訪問など、極めて特殊で専門的な対応が求められます
翻ってギフテッドチャイルドですが、そもそもこのようなcategorization/分類をすべきなのか、甚だ疑問です
子どもの能力は千差万別であり、授業内容が簡単過ぎると言うなら、難し過ぎ子もいるわけで、本来ならそういう子どものひとりひとりに相応しい対応のできる体制と教師の資質があるべきです
貴兄と筆者に共通の師、村井実先生がかつて提唱され、当時の教育行政が取り入れるにあと一歩のところであった寺子屋的個別教育法が実現していればと、悔やむばかりです
それでもまだ、アメリカに於けるギフテッドチャイルドポリシーは、歴史と風土の必然があってのことかも知れません
しかし日本の学校にその必然があるとは、とても思えないのです
更に言うなら、現代家庭教育の脆弱さも指摘されるべきでしょう
子どもは先ず、家庭の躾で育つべきもので、そこには藝術的審美眼が欠かせません
貴兄の教養の根幹には、茶道、医学、哲学等、幼少時からの恵まれた環境もあるのではないかと想像します
私が各国でソフォクレス、シェイクスピア、ゲーテの戯曲を脚色・演出・演戯することができるのも、バリ島の村々でランダ舞手に指定されたのも、中国で李白・杜甫・王維の詩の朗詠について講義・指導できるのも、実家の本棚に世界・日本文学の叢書が並んでいた、という少年時代の背景があったればこそ、です
如何でしょう?
貴兄の考えをお聞かせください
このテーマについては多分一回の遣り取りでは足りないと思うので、二〜三度の往復書簡の形にしたいと思います
以上三点、ご理解ご検討くださいますようお願い致します
敬白
二○二三年二月二十日
中国北京より
黒川五郎先生
川手鷹彦
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上述の呼びかけに対し、早速黒川教授から丁寧なご返信をいただいた
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川手先生
この度はご連絡ありがとうございました。とても本質的なご提案を頂き、まさに我が意を得たりという心境です。このテーマを発展させることにより、もしかしたら新しい教育の地平を切り拓いていくことができるかもしれません 。まさに貴兄のおっしゃる通り、この問題は東洋の、とりわけ日本に限らず儒教文化圏の国々の教育を語る際において、まず第一義的に考察すべきテーマであるということだと思います。
しかしながら、なぜこのテーマが例えば日本の近代、すなわち明治以降の教育の歴史の中で十分に展開ないしは実現できなかったかということについて、考えてみなければなりませんが、要は学校教育に従事し、ないしは、大学等で教育学を研究している当の本人が、そもそも今日の学校教育制度の最大の受益者でもあり、そうである以上、例えば特別な思想的問題意識等から教育の変革を目指しているようなポーズをとっていたとしても、本気でこの制度を変える気はないということがまずは背景にあるのだと思います。小生も長年教育学会等でそのような思いを抱かざるを得ない場面に多々遭遇してまいりましたが、今となってはある意味若き日からの懐かしい思い出となりつつある今日この頃でした。しかしこのまま放置しておいて良い問題でもないので、誤解を恐れずに言うのであれば、今回川手先生とこのようなテーマについて議論するということが、大変遅ればせながら明治以降の我が国の教育史あるいは教育学史において、エポックメイキングな出来事になり得るということも、また誇張せずに有り得るということかと思われます。 実に驚くべきことなのですが、ある意味このことがリアルな現実であるということに、今更ながら忸怩たる思いを抱かざるを得ません。
ところで、まず第1のパイデイアを東洋で実現できるかということについてですが、 この問題を語るにはいくつかの前提を置かざるを得ないということがあり、しばしお時間をいただきたいところなのですが、とりあえず結論だけ申し上げますと、可能であると思います。 しかしながら、そのためには まずは古代ギリシャにおけるパイデイアとは何であったのかということを理解しなければならないと思います。 実はこれが結構厄介な問題で、 例えば日本の教育学者でもほとんど一握りの人しか本当には理解できていないのではないかと思います。
私も決してもったいぶるつもりはないのですが、 これを理解する一番の近道としてはプラトンの「饗宴」を読解することをおすすめしたいわけですが、 しかし時代も地域も違う古代ギリシャの人々の真意を理解するのは実際には結構難しいところがあることも確かかもしれません。
『饗宴の場面』
イタリア・Salernoサレルノ・Paestumペストゥム遺跡
紀元前480年〜470年
石灰岩板にフレスコ
潜水夫の墓の側壁より
Paestumペストゥム・(イタリア)国立博物館
この点において、村井実先生の諸著作における解説は、極めて有益であると言うことができるかと思いますが、 それらの中でも特に「原点による教育学の歩み」の巻頭を飾るパイデイアの章に出てくる、この「饗宴」においてソクラテスを導くディオティマの語るエロースについての対話哲学的な言説は、極めて素晴らしく、要はそれを参照していただくことが一番の近道であるわけです。とりあえず、ここでそれについて一言だけ言及するとすれば、 古代ギリシャで発生したとされる単なる人間を養育することとは異なる、”人間の教育”としてのパイデイアについて、それをエロースと言うことから、すなわちよく生きるということから紐解いているということになるわけです。ソクラテスの言うように、人間は単に生きながらえているだけではなく、常によく生きようとしているのであり、一人一人の人間が人間として善さを求め、よく生きるということが前提となり、そのような人々を援助するということがパイデイアであり、ここでまた、では 善さとは何かという問題意識が生み出されてくるわけです 。ギリシャ人はここで善さ、すなわちアガトスということよりも、徳すなわちアレテーについて問題視していたようにも思われますが、人間としての長所が徳ということであるとするなら、結局のところ村井実氏が生涯にわたって主張しているごとく、 人間としての善さと徳とは、切り離せない全く同一のものであるということができるでしょう。 そもそも学校教育はその善さを個々人から引き出すための手段であり、あくまでも目的ではないということなのです。
20世紀以降の現代の教育は、もはや国家が教育制度を整え、その教育制度に個人を適応させ、更には社会に有用な人物を輩出するために教育を国家が主導していくという体制の下で議論されていき、その国家に雇われた学者が教育学を講じている以上、学校教育にいかにうまく適応できるか,あるいは、その結果としての生産体制のもとで、いかに個々人がそこに歯車として齟齬なくワークしていくかということを主眼として展開されたものなので、明らかに古代のギリシャ人が考えていたような場合とは、ほとんど正反対のあり方がなされていかざるを得ないということになったのです。
以上、議論はまだまだつきませんが、とりあえず今回は、この辺りまでで一段落させていただければと存じます。また近々この続きを送らせていただければと存じます。
黒川五郎
二○二三年二月二十一日
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上記の遣り取りに出てくる、プラトン、並びに、村井実先生による著作物を、以下に参考文献として掲げておこう
『饗宴』(プラトン著、久保勉訳、岩波文庫、改版2008年、ワイド版2009年)
『原典による教育学の歩み 原典による学術史』(村井実著、講談社1974年)
『「善さ」の構造』(村井実著、講談社学術文庫1978年)
『もうひとつの教育 世界にさぐる旅』(村井実著、小学館1984年)
二○二三年三月十三日中国厦門
屋我地診療所治療教育外来代表
川手鷹彦
挿画について
古代ギリシア、特にアテナイ/アテネの哲人や藝術家たちは、エロース(愛)やアガトス(善)など、物事の根源について語らうことを至福の歓びと感じており、語らいが同性愛に発展することも珍しくなかった
ご紹介した三幅には何れも男性が描かれているが、女性愛では、レスボス島に於ける女神アフロディテと詩人サッポーを中心とした集団的女性恋愛が知られており、それが女性愛レズビアンの語源ともなっている
(一夫一婦制、性愛は異性間のみ、という文化は、近代以前は特定の民族・時代に限定された稀少な事象であった)
立ち返って、古代ギリシアの哲学談義は『アテネの学堂』のように街や野山を散策しながら、また他の二幅のように長椅子に寝そべりワインを飲みながらなど、様々な形式・形態で行なわれた
ラファエロによる名画『アテネの学堂』では、中央にプラトンとアリストテレスが歩み語らう他、二人の師でもあるソクラテス、若き日のアレクサンダー大王など、往時の賢者・傑物が描かれていると言われているが、人物の特定については諸説ある
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